イリヤ・ドロズディヒンさんは、自分の人生を鐘にかけた。特別な音楽教育を受けたわけではないが、15歳で鐘楼にのぼり、周辺地域のためにコンサートを行っている。
「子どものころから鐘にすごく興味があって、教会で見習いが必要になった時に、司祭から鐘楼守になることを許可された。当時鐘楼守だった人は、他の仕事と兼務していたから、すべての礼拝をまわりきれずにいた。その人は私に演奏の仕方を教えると、では明日から演奏をよろしくと言った。私はショックを受け、ヘタな演奏に怒った人に石を投げつけられるんじゃないかとドキドキしたが、実際に演奏してみたら、誰にも交代を気づかれなかった。こうしてキャリアをスタートさせた」とドロズディヒンさん。
アントン・チュロチキン撮影
ドロズディヒンさんは7年かけてスキルを磨き、この間に多くの教会の主任司祭と知り合いになることができた。どこも人手不足に悩まされていた。「この仕事で報酬が出るのはまれ。聖職者が礼拝の時間を見て担当することが多い。そうでなければ教会の合唱者だけど、そうなると報酬は支払われる。または定期的に教会を訪れる普通の信徒。このような条件だと離職率はとても高くなるし、仕事を完全にマスターする人も限られてくる。だから私の仕事を知っている聖職者から、自分たちのところでも鐘の打ち方を教えてほしいと言われるようになった。近隣の住民に迷惑をかけないように、教室も設置しなくてはいけなくなった」とドロズディヒンさん。
授業が行われている特別教室には、鐘楼守が鳴らし方を覚えなければならない、7つの鐘からなるセットが置いてある。ドロズディヒンさんの発注品ばかりだが、古い鐘もある。
生徒は2ヶ月学び、練習するために教区へと戻る。「自分自身のために学びに来るケースは、あったことはあったが、少ない」とドロズディヒンさん。学ぶ人の多くは女性で、すでに就職先の鐘楼が決まっている場合が多いという。
アラブ首長国連邦やバルト三国などから外国人が学びに来たケースもあった。「外国の教会が鐘のセットを注文した場合、設置者が現地で鐘の扱い方を教えることが多い。詳細にとはいかなくとも、何らかの要素を説明することはできる」。ドロズディヒンさんの教室を通じてつくられた鐘は、エルサレムの聖墳墓教会の鐘楼にもある。
アントン・チュロチキン撮影
ロシアでは昔、人々によって集められた金属から鐘が鋳造されていた。中には金属製のスプーンや食器まであった。19世紀末までに金属の質は高まり、しっかりとした鐘を鋳造することができるようになった。鋳造者は独自の方法を用いて、さまざまな形や装飾の鐘をつくってきたが、80%の銅と20%のスズという割合を変えることはなかった。
ソ連時代に突入し、1920年代後半から鐘は一切つくられなくなった。宗教を禁じたソ連政府は、溶解するために鐘を教会から搬出した。聖職者はこれを妨害するため、鐘を鐘楼から外し、隠したり、貯水池に沈めたりした。このような状況により、鐘楼守の技能はほぼ失われてしまった。
教会の鐘は、映画をきっかけに、突然よみがえった。1960年代、レフ・トルストイの長編小説「戦争と平和」の映画化が決まり、撮影で鐘楼守が必要になった。わずかながら知識を持っている人が見つかり、芸術が取り戻された。1970年代には博物館に鐘があらわれ、歴史的遺産としてこの芸術が守られ、演奏されるようになった。
アントン・チュロチキン撮影
1.鐘楼守は正教徒であるか、少なくとも異教徒ではないこと。
2.リズム感があり、音楽のリズムの基礎を理解できること。礼拝告知、一斉、小刻み、三点打の4種類の標準鐘声を習得しなければならない。この時、それぞれの鐘の音は即興である。
3.毎日、あるいは1日何度も鳴らさなくてはならないため、責任感があること。鐘を丁寧に扱うこと。使い方を誤ると、割れてしまい、溶解しなければいけなくなるため。鐘を修復することは不可能。
4.鐘楼守は鐘楼から落ちることのないよう、しらふでなければならない。
鐘を鋳造し始める時に、ばかばかしい噂を立てれば、噂が広まるほど、鐘の音が良く響くようになると考えられていた。
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