岩に描かれたソ連指導者の彫刻や肖像画がいくつあるのか正確な数は誰にも分からない。なぜなら、多くの作品は管理されておらず、また中にはすっかり破壊されてしまったものもあるからだ。しかし、いくつかの肖像画は今でも目にすることができる。
リゾート地であるピャチゴルスク(スタヴロポリ州)のマシューク山の南麓に、ボリシェヴィキを率いたウラジーミル・レーニンの巨大な肖像画が描かれた岩がある。地図には、レーニン岩と書かれている。1925年に画家ニコライ・シュクリンと2人の助手によって描かれた。製作には6日かかり、発表のときには地元の共産党の幹部だけでなく、ドイツの有名な共産党員クララ・ツェトキンも姿を見せた。
肖像画は油絵の具で描かれたが、シュクリンは1960年にもう一度、描き直しに再びここを訪れた。2009年には、肖像画は落書きされたが、2018年にスタヴロポリの画家イーゴリ・ズブリツキーがこれを修復した。肖像画には多くの観光客が押し寄せ、最後の数メートルはかなり急な勾配になっているにもかかわらず、レーニン岩には常に多くの人々が足を運んでいる。
もう一つ、岸壁に描かれたレーニンの肖像画は隣の街キスロヴォツクの公園の中にある。この銅の浅浮彫りは1927年に制作され、岩に貼り付けられたもので、赤い砂岩で造られていることから、地元の人々の間では、「赤い石」と呼ばれている。この肖像画は2度目に作られたものである。最初の作品は1924年、レーニンの死後に、岩に直接彫られる形で製作されたが、砂岩は非常に脆く、作品はまもなく崩れ始めたのである。そこで、銅に肖像画を作ることになったわけだが、この肖像画はほぼ1世紀が経った今も非常に良い状態で保存されている。
南ウラル、バシキール共和国の首都ウファから250キロの場所に、世界でもっとも変わった作品の一つがある。岩に、カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス、ウラジーミル・レーニンの肖像画が描かれているのである。1970年代にこのソ連版のラシュモア山を作ったのは、バシキールの芸術家ブラート・ラヒモフとその助手ら2人である。塗料として使われたのは、土壌由来の黄土色を出す顔料である。というのも、この顔料は、岩の上にそのまま描くことができた。作業は吊り下げ式のゴンドラを使って行われたが、出来上がった作品はかなり壮大であった。それぞれの肖像画の大きさは、18階建ての家とほぼ同じである。作品全体の大きさは幅50㍍、高さ70㍍におよんだ。
この山は全ソ連観光ルートの上にあったことから、たちまち人々の間で知られるようになり、クィズィルタシ山(バシキール語で赤い石の意)は3人の指導者の岩またはクラシック岩と呼ばれるようになった。製作されてから35年の間に激しく色褪せてしまったが、古い写真を見るとどのような肖像画だったのか、はっきりと見ることができる。
高さ80㍍の岩はこの肖像画によって、ウラジーミル・レーニンと呼ばれている。シベリア南部ビイスクから180㌔離れた、ビヤ川の右岸にある。
レーニンの横顔は、第二次世界大戦後に隣村トゥロチャクの教師、イワン・スィチョフが製作した。自分自身の足跡を残すためであったという(少なくておも、地元ではそう言われている)。元々はスターリンの浅浮彫りがあったが、1957年に壊された。スィチョフは、「ゴンドラ」を使い、数週間かけて作品を作り上げた。1970年代の末から、このイコノスタスは歴史的価値を持つ天然記念物と認定され、現在も国家によって保護されている。
カフカスにはヨシフ・スターリンの肖像画が保存されている。北オセチアのツェイスコエ渓谷である。岩の肖像画はカフカス横断鉄道を移動するすべての人々を迎え、思慮するソ連の指導者の姿を見せている。逆方向からは、同じ石の上に、オセチアの古典詩人、コスタ・ヘタグロフの顔を目にすることができる。この巨大な石の大きさはおよそ4㍍で、共和国の見どころの一つとされている。スターリンの「個人崇拝」が禁じられた後、モニュメントは破壊されたが、こちらの肖像画は今も残されている。
ある伝説によれば、石は渓谷に投げ捨てられたのだが、ジギトと呼ばれる乗馬者が拾い上げ、元の場所に戻したという。地元の人々の中には、スターリンはオセチアのルーツを持っていると考えている人が多い。
もっとも大きなスターリンの岩の肖像画はザバイカリエ地方のシベリア鉄道の上に立っている。アマザル駅に向かって登っていくと、遠くからでもよく見える。
浅浮彫りは1935年にモスクワとウラジオストクと結ぶ鉄道の2本目の支線が建設されたときに作られた。その大部分は、過酷な労働条件の下、バイカルアムール強制収容所の囚人たちによって作られた。胸像は囚人たちの願いにより、6㍍の岩に作られたが、その理由については分かっていない。ある説によれば、一人の囚人、あるいは数人の囚人が、収容所での生活を少しでも楽なものにしてもらおうと岩の肖像画を作りたいとスターリンに書簡をしたため、スターリンはなぜかこの提案に同意し、しかもその後、作者らに恩赦を与えたとも言われている。いずれにせよ、胸像はおよそ20年、鉄道の上に立っており、列車が岩に近づくと、運転士はマイクを使って、窓からこの岩が見えると案内している。おそらく、スターリンの横顔は異形鉄筋、石、コンクリートで作られ、岩の上に設置されたものと見られる。高さは3メートルにも達し、月明かりの中でも見える。1949年、スターリンの70歳の誕生日には、肖像画はライトアップされた。
しかし1956年、銅像は爆破された。公式発表によれば、記念碑が崩壊する危険性があったからだとされている。しかしこのレリーフがどのようなものであったのかは列車の中で売られているポストカードか数少ない写真でしか見ることはできない。
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