オウム真理教をテロ組織と認定

オウム真理教をテロ組織と認定=

オウム真理教をテロ組織と認定=

ボリス・カヴァシキン撮影/タス通信
 1990年代に人気を誇っていた新興宗教団体「オウム真理教」。多くの人はすでに消滅したものと考えていた。しかし実際には、この20年の間、ロシアでの影響力をさらに強めていたのである。

 9月末、ロシア最高裁判所はカルト教団「オウム真理教」を「テロ組織」と認定し、活動を禁じるとの決定を下した。13人が死亡、およそ6000人が負傷したあの地下鉄サリン事件から20年が経過した今になってこうした決定が下されたことについて、誰もが驚きを隠せない。

 事件後、ロシアの人々は少なくともロシアにおいてあの恐ろしいカルト教団は非合法となり、オウムは過去のものになったものと確信していた。そして2016年4月初旬、ロシア連邦捜査委員会のウラジーミル・マルキン報道官はオウム真理教はテロ組織のリストに加えられていると発表した

 しかしその後、オウム真理教はいかなるブラックリストにも含まれていないことが判明した。そんななかロシアでは、目の不自由なグル麻原彰晃の追随者の数が、1990年代初頭に記録された最高レベルに再び近づきつつある。ロシア支部に日本国内のそれを上回るほどの信者がいた時代の数にである。事実、オウム真理教とロシアには多くの結びつきがあるため、ここから教団を排除するのは容易なことではない。

 

モスクワっ子からは多く取っていた

 ロシア版フェイスブック「フ・コンタクチェ」のパブリックグループ「ストップ・セクタ(ストップ新興宗教)」のメンバーが匿名で次のように書き込んでいる。「無料のレクチャーを聞いて、それがとても気に入った。レクチャーの後、実践に進むよう勧められたんだ」。パブリックグループにいるメンバーはおよそ700人。その大部分がかつてオウム真理教と出会いながらも、時宜よく脱会した人々だ。そのグループによれば、布施、レクチャー、ビデオ教材など、あらゆるものにお金を出さなければならなかったという。匿名のユーザーのひとりは続けて次のように打ち明ける。「私がモスクワ市民だったことも不運だった。彼らはモスクワ市民により多くのお金を出させていたんだ。また麻原彰晃の書いた本を10回読み返さなければならなかった」

 ロシア西部のある地域では次のようなことがあった。ロシアNOWが入手した個人的なメッセージの中で、23歳の青年は教団の「魅力」についてこう語る。「新興宗教団体は恐ろしくて、怪しくて、人をゾンビにするところだとみんな言う。そう、団体ではNLP(神経言語プログラミング)やその他の手法が使われていて、わたしもそのすべてに従っていた。でも考えてもみてください。テレビ、学校、大学、その他の国家機関だって人をゾンビにしているではないですか」。そして何度かメッセージのやり取りがあった後、「基礎コース」への招待状と住所、料金を知らせるメッセージが送られてきたのだった。

 オウム真理教との出会いはヨガへの興味から始まることが多い。ヨガ愛好者の中から、新たな信者を集めるのである。教団への誘いはスカイプやSNSを通じて行われる。麻原彰晃の派遣する幹部のほとんどは日本人ではなく、地元の住民だ。グルの名前はすぐには明かさず、連日のマインドコントロールが数ヶ月行われた後でようやく知らせるのである。

 現在、教団は陰に隠れ、法の網をかいくぐって活動している。しかし以前からずっとそうだったという訳ではない。オウム真理教がソ連に入ってきたのはペレストロイカ時代の1980年代末で、当時彼らは毎日ラジオ放送を行い、テレビにも出演し、またロシア最大のスタジアムで大規模なメディテーションを実施し、クレムリン大会宮殿で布教活動を行った。

 

8,000ドルの血液

 国内でのオカルティズムの最初の興りはソ連邦崩壊の直前のこと。これまで宗教が存在しなかった国は、まさに振り子が大きく振れるように、宗教による恍惚状態に陥ったのである。ロシア宗教・新興宗教研究センター協会のアレクサンドル・ドヴォルキン会長は、「1990年代初頭、人々にはまだ新興宗教に対する免疫がなかったのです。オウム真理教がこれほど多くの人々を惹きつけたのも驚くべきことではありません。オウム真理教は、例を見ないほどの大々的な宣伝を行い、モスクワ中心部の露日大学の立派な建物を有し、オレグ・ロボフ安全保障会議書記の支援などを受けていたのですから」と説明する。

モスクワのクレムリン大会宮殿で出演、1992年3月18日=ヴァディム・ジュコフ、セルゲイ・ミクリャエフ撮影/タス通信モスクワのクレムリン大会宮殿で出演、1992年3月18日=ヴァディム・ジュコフ、セルゲイ・ミクリャエフ撮影/タス通信

 一方、1990年に入って誕生した新たな民主政権にとって、外国から入って来た新たな考えに媚びるということは悪くないPRのように思われた。ドヴォルキン氏は「人々はオウム真理教を『日本からきた異国的魅力のあるもの』と捉え、それが気に入った。しかしながら、わたしは収賄の要因があったことも除外できないと考える」と述べている。

 麻原彰晃は1992年にモスクワを訪問した際、アレクサンドル・ルツコイ副大統領と面会した。またオウム真理教モスクワ支部開設セレモニーで当時のユーリー・ルシコフ元モスクワ市長が麻原と握手を交わしている写真が残っているが、これは今なおルシコフ氏にとっての汚点とされている。当時の信者の数について統一された評価はないが、35,000から50,000人とされる。

 1995年頃になると、モスクワには大きな事務所が7つも開かれていた。仏教、ヒンズー教、キリスト教、オカルティズム、アポカリプスなどを融合させたオウム真理教の教えは急速に信者を獲得していった。信者たちには麻原尊師の髪の房や彼が浸かった浴槽の水、血液、精液などをそれぞれ8,000ドルという価格で販売された。ある時、麻原は自身をキリストの生まれ変わりだと言い、それによって追随者の数はさらに増えることとなった。

オウム真理教の信者、モスクワ、1995年3月=Getty Imagesオウム真理教の信者、モスクワ、1995年3月=Getty Images

 オウム真理教とロシアとの友好関係はきわめて緊密で、モスクワ郊外の射撃場で教団幹部のために射撃訓練が組織されたり、短期の戦車操縦訓練も実施された。これについてロシア通信は「自動小銃製造のための設計図(サリン事件の後、押収されている。ロシアNOW注)やサリン製造の方法をロシアで入手した可能性も否定できない」と伝えた。モスクワにある複数のオウム真理教の事務所で発見されたノートには、オウム真理教のメンバーに対してサリンガスの実験を行った証拠が記されており、ここからもロシアでサリンの製造法を知ったであろうことがわかる。

 1995年3月に起きたサリン事件の後、教団には若い信者の両親らが名目的に個別の訴訟を起こし、裁判所は教団を解散させた。しかしオウム真理教は禁止団体のリストには含められず、彼らはただ信者集めの方法を変え、一定期間、影を潜めていたに過ぎなかった。

 

リゾート地の新入信者

 以降、オウム真理教は10年以上にわたりひっそりと活動を行っていた。教団は忘れ去られ、すでに活動を停止したものと考えられていた時期があったのも驚くべきことではない。プリモーリエ市でドミトリー・シガチョフを首班とするオウムのグループが逮捕されたのは2000年になってからのことだ。グループは死刑囚となった麻原彰晃の奪還を求め、日本でテロ事件を策謀した。2006年の国家統計によれば、このころのロシア国内の信者数はおよそ300人となっている。

 セミナーや集会は国外で行われるようになっていた。その実施場所としてもっとも多かったのがロシア人に人気のリゾート地クリミアがあるウクライナである(クリミアは当時まだウクライナ領だった)。しかし2013年にウクライナが日本人指導部の入国を拒否し、オウム真理教と密接な関係にある組織を解散させると、信者たちはロシア人の間で人気の高いもうひとつの休暇先であるトルコにその場所を移した。

 恐らく、状況を変える転機となったのはロシア・トルコ間の航空便が一時運休されたことだ。2016年の春に、冬のあいだ閉鎖されるモンテネグロのホテルで開かれたオウム真理教の定例集会が警察によって中断され、期限切れのビザを持った参加者たちが強制送還されるという事件があったことが原因だ。

 その数週間後、モスクワとペテルブルグで信者らの拠点における大規模な捜索が行われ、多くのものが押収された。ロシア検察庁の資料によれば、現在ロシアにおけるオウム真理教の信者の数は最大で3万人とされる。

 ドヴォルキン氏は「裁判所の決定が下された後もオウム真理教がその存在を停止することは決してないだろうが、今後メンバーらは法によって厳しく罰せられ、人々は一層の警戒心を持つようになるだろう。また教団の活動範囲も狭まる。これだけでも良い結果がもたらされたと言えるのではないか」と指摘した。