撮影提供:ダリヤ・アンドレエワ
イーゴリ・ザプリャガイロさん(35歳)は、人道支援物資の運送人で、生地のベルゴロドからドネツィク(ドネツク)やルハーンシク(ルガンスク)へ車を走らせている。軍人の家庭に生まれ、父親のアレクサンドルさんは、ベルゴロド州のハリコフ同郷人会の世話役だ。
―そもそも、なぜ人道支援物資を運ぼうと思ったのですか?怖くありませんか?
もちろん怖いです、ごく自然な感情といえますが、私は、軍人の家庭に生まれ、社会政治活動に従事し、「ロシアの愛国主義者たち」の青年組織をまとめています。
―ベルゴロドからドネツィクへのルートについて聞かせてください。時間や労力はどれくらいかかりますか?
ベルゴロドからドネツィクまでは、片道750~800キロ、ほぼ二昼夜の道程です。ロストフ・ナ・ドヌに積み替え地点があり、集められた物資はみんなそこへ運ばれます。支援物資にはそれぞれ宛先があり、ロシア全国から集められるすべて物資の分配がロストフ・ナ・ドヌで行われ、たとえば、医薬品は、ドネツィクとルハーンシクの両人民共和国の病院から寄せられる要望にもとづいて発送されます。
―主に医薬品を運んでいるのですか?
そうですね。最近は、ドネツィクの火傷治療センターやルハーンシクの州立病院へ血液や傷の癒着のための特別の薬剤を届け、食料を運んだこともありました。
―ノヴォロシアでは迎えてくれたり同行してくれたりする人はいるのですか?
国境ではドネツィクとルハーンシクの両人民共和国の有志のコーディネーターたちが迎えてくれます。
―それでもウクライナ側の銃弾に晒されることはありますか?
もちろん砲撃されることはありますけれども、人道支援物資の輸送回廊の状況はつねに把握していて、状況が許さなければ半日か一日どこかに留まりますから、届けるのに時間がかかってしまうのです。ときには、国家親衛隊のメンバーや「右派セクター」の極右民族主義者ではないウクライナの軍人たちが、人道支援物資を積んだ車両を通行させてくれることもあります。
―物資の運送は、いつごろから始まり、あとどれくらい続きそうですか?
ベルゴロドの同郷人会がノヴォロシアの支援に積極的に乗り出したのは、6月15日から20日にかけてですが、今後さらに力を入れなくてはならないと思います。当初は週一回の発送を予定していましたが、企業や有力な実業家も呼びかけに応えてくれて、平均2トンずつ支援物資が集まっています。
アナトリー・トロイノフさんは、2014年3月7日からウクライナ南東部へ人道支援物資を運んでいる。この間にすでに伝説の人物となり、ウクライナ軍はその首に懸賞をかけているという。アナトリイさんはドンバス(ドネツ炭田)の出身で、母親もドネツィクに住んでいるが、そのような背景がなかったとしても、アナトリーさんは、ノヴォロシアを支援していたにちがいない。それを自分の使命と信じて…。
―まず、ご自身についてお話しください。
アナトリー・アレクサンドロヴィチ・トロイノフ、30歳です。以前は、企業家として小規模ビジネスに従事し納入の仕事に携わっていましたが、今は、金稼ぎやビジネスどころではなくなりました。
―ノヴォロシアへの人道支援物資の輸送に従事しようと思ったのは、なぜですか?
母は、ここドネツィクに住んでいて他所へ行きたがりませんし、私も、ここの出身で17年ほどリストヴャンカに住んでいました。ここには、おじも教父も二人の甥もいます。ここで起こっていることをテレビで目にすると、あれは自分の仲間じゃないかと思われて、とても無関心ではいられなくなるのです。
―ドネツィク人民共和国の人々の支援はいつごろから始めたのですか?
3月7日からで、その日、スラヴャンスクへ届ける最初の小さな荷物を受け取りました。
―ボランティアの人たちが人道支援物資を運ぶ際に亡くなったケースはありますか?
はい。
―人道支援物資を積んだ車には、何かそうした表記はあるのですか?
最初はありましたが、そうした車両がかえって狙われるのです。ウクライナ軍人たちだって、お腹を空かせていて、人道支援物資にありつきたいのです。
―ロシアからノヴォロシアへは、どのくらいの頻度で、そして、あとどれくらい、通われますか?
きょう荷物を運んできて、これから荷降ろしをして、ふたたび出かけます。戦争が終わるまで、ロシアからノヴォロシアへの道があるかぎり、私はここを去りません。
―車両は砲撃に晒されるそうですが、防御は施されてあるのですか?
いいえ。運頼みというわけでもありませんが、速く走れるようになるべく車を軽くしてあります。一度に15トンずつ運びたいところですが、車がぜんぜん足りず、カマズ社のトラックでもあれば最高なのですが、そうなると燃料の問題もありますし…。
―支援はどこから寄せられていますか?
もっぱらロシアからです。変わらぬパートナーのような組織や企業があるのです。以前は、「ある者にとっての戦争がある者にとっては生みの母親」という諺のとおり人道支援の分野には余り信用できない人たちもいるので、ビデオによる報告を求められまして、たとえば、ロシア正教会からもそうした報告を求められたのですが、今ではすっかり信用してくれています。夜半に着いたら、カメラも使えませんし…。今は、ただ荷物を積んで十字を切って神と共に出発し、向こうに着いたら電話をします。
―この仕事で忘れられないエピソードはありますか?
あるとき、人道支援物資を収集するテントのそばに立っていると、4歳くらいの女の子が近づいてきて、人形を差し出して「スラヴャンスクの子供たちに届けて」と言うので、私はその通りにしてあげました。
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