クリミアがウクライナ領になったわけ

クリミアの割譲から60年が過ぎても、その決定の適法性に関する議論は続いている=タス通信撮影

クリミアの割譲から60年が過ぎても、その決定の適法性に関する議論は続いている=タス通信撮影

想像しがたいが、現在、そのステータスに関する問題がウクライナの新政権および西側とロシアの関係を揺るがしているクリミアは、ほんの60年前に、ロシアとウクライナ左岸の一つの国家としての統一300周年を記念して、ロシア民族からウクライナ民族へ「同胞のプレゼント」として“贈られた”ものだった。そうしたシンボリックな行為は、友好、経済、そして、…新しい第一書記ニキータ・フルシチョフの威信を強化するはずだった。

 指摘しておくべきなのは、クリミアは、1783年にロシア帝国に併合される以前には、東ローマ帝国、ハザール汗国、モンゴル帝国、オスマン帝国の支配下にあり、ロシア帝国は、一枚岩であったのは1917年までであり、革命後は、正式に独立したソ連の共和国および自治共和国に分割され、クリミアは、そうした自治共和国の一つとなった、ということである。

 革命の混乱の結果、クリミア半島は、ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国という名称を得たロシアの一部に留まった。

 当時、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国という名称を持ちソ連邦の枠内での形式的な独立を有していたウクライナへクリミアが移ったのは、その住民にとってばかりでなく当時の国の政治エリートにとってもまったく予期せぬことだった。

 

お膝元ウクライナの支持基盤を固めるため 

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 長年にわたってウクライナ共産党を率いてきたフルシチョフは、政権の座につくとすぐに、シンボリックな行為によって有力なウクライナの「エスタブリッシュメント」の確固たる支持を取りつけようとし、持ち前の独断専行的な手法を用いて、クレムリンでのある農業に関する会議で、ウクライナにクリミアを割譲することを提案した。その会議に出席していた将来のソ連外相ドミトリー・シェピーロフは、のちにこう回想している。「フルシチョフは、自らウクライナに特別の贈り物がしたかったのだ。自分の気前のよさ、ウクライナの繁栄に対する不断の配慮が、ウクライナじゅうに知れわたるように…」

 「ウクライナの人たちは、もちろん、よだれを垂らして大喜びするでしょう、もしも、ロシアがクリミアを譲るとしたら。我々はロシア連邦とも合意できると、私は思います。ただ、これは頭を使ってうまくやる必要がありますね」。シェピーロフによれば、党のリーダーは、そのように自身の提案を行った。

 

「正しくないが、受け入れざるを得ない」 

「フルシチョフは、自らウクライナに特別の贈り物がしたかったのだ。自分の気前のよさ、ウクライナの繁栄に対する不断の配慮が、ウクライナじゅうに知れわたるように…」=タス通信撮影

 やはりフルシチョフの提案の場に居合わせたシェピーロフの前任の外相であるモロトフは、こう述べた。「もちろん、そうした提案は正しくありませんが、どうやら、受け入れざるを得ないようですね」

 フルシチョフが用いた論拠は、のちの1954年2月5日のロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国・最高会議幹部会の会議で「熱弁家」のミハイル・タラソフとオットー・クウシネンが用いたものとほぼ完全に一致していた。それらの論拠は、次の三点に集約できる。ウクライナはクリミアに近いこと、新らたな配置のほうが経済を営みやすいこと、ウクライナもロシアもどのみち同じ国家に属すること。

 1950年代のその当時、クリミアの住民は、政治家と事実上同じ理由で、「割譲」に憤ることなどなかった。すべてこれは同じ国家のなかで行われたものであり、変化を気に留める人もなく、多くの人は、ウクライナ語の看板が街に突然お目見えするまで、まったく何も気づかないでいた。

 

「贈り物」の法的側面 

 クリミアの割譲から60年が過ぎても、その決定の適法性に関する議論は続いている。

 とくに大きな疑念を抱いているのは、法律家や歴史家である。はたして、ロシア連邦を代表してその領土の変更を認める権利を有するのは誰なのか? そうした義務的な承認については、当時、1937年のロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国憲法第16条および1936年のソ連邦憲法第18条に記されていた。

 そうした承認は、両共和国の側から、両政府(最高会議幹部会)の決定の形で、正式なものとされたが、ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国最高会議幹部会の全権の一覧を内容とするロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国憲法第33条には、ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国の国境の変更に関する全権はなく、そのかわり、住民投票の実施を発意する全権がある。しかし、クリミアでも、クリミア半島が割譲されたロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国でも、これまでに住民投票が行われたことはなかった。

 のちに、1978年のウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国憲法において、セヴァストポリは、キエフとともにウクライナ構成下の共和国的意義を具えた都市となったが、住民は、依然としてそれに断固として異議を唱えている。1948年10月29日の「自立した行政と経済の中心としてのセヴァストポリ市に関する」ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国最高会議幹部会令は、変更も廃止もされていないばかりか、市議会は、1994年にロシアへの併合に関する決定を行ってもいる。