ナタリア・ミハイレンコ
初のG8がイギリス・バーミンガムで1998年5月15~17日に開催され、以降ロシアを加えたこの名称が定着した。ロシアはこれ以降、ほぼすべての国 際会合の参加国になり、その多くで議長国の経験も積んだ。はたしてロシアは世界の運命を決める主要国の中で、地位を確立したのだろうか。
席を確保するまでの道のり
ボリス・エリツィン大統領はソ連崩壊後、大国のステータスを取り戻し、主要国の仲間入りをしようと努力していたため、1998年のバーミンガム・サミットは新ロシアにとって重要な契機となった。
ところがバーミンガム・サミットのわずか3ヶ月後に、ロシアは債務不履行を宣言する羽目となり、厳しい経済・政治危機に陥ってしまった。政府は即座に西側諸国に金融支援を求めたが、断られ、先進国に並んだという幻はそのまま消えた。
だが当時のことを今思い出すと不思議な気持ちになる。ロシアが債務国から債権国に変わって長い時間が過ぎ、かつて支援を求めていた国々と、ヨーロッパの 統一通貨やEUの一部の国の支援などについて対等に話し合っているのだ。ロシアが世界のエリート・クラブに属していることに反対意見を述べる人もいなくなった。そもそもG8の状況が1990年代末から大きく変わったというのもあるが・・・
先進国首脳会議は政治ショーに
先進国首脳会議が発足した当初の1970年代半ば、この会合は最大限に閉鎖的で、その内部で現実的な問題を専門的かつオープンに話しあえる場所だった。当初 G5だったこの会議も、拡大して世界からの注目度が高まったことにより、徐々に大衆向けの政治ショーに変わっていった。
会議の透明度が増すほど、率直な対話の危険度が増す。例え閉鎖的であっても、何ヶ国も参加していれば情報がもれる。だからといってそれを恐れて率直な対話をしなくなれば、集まる意味がなくなり、発足当時の目的を失ってしまう。
世界の勢力バランスが根本的に変わって行くなか、小規模な会合は多くの結果をもたらさなくなり、ある時期から世界的な経済会合は中国なしでは成り立たない ことがはっきりしてきた。G8は民主主義国家の会合であるため、なかなか中国を呼ぶことができないでいたが、2008年の世界的な金融危機の際、20ヶ 国・地域(G20)首脳会議という新たなプラットフォームが現れたことで、先進国と中国が同席することができた。
それでもG20は世界の最高峰とはならなかった。金融危機の第一段階では、G20の代表が集まったことで世界を安心させ、重要な役割を果たしたものの、 その後は形式的な会議に変わってしまった。とはいえG20の議長国は、世界の責任ある大国の証としてこの立場をアピールしている。現在それはロシアの番になっている。
アピールできる力
ロシアは近年、世界的な課題で何度も主導権を握ってきたが、それらの課題の発展は見られなかった。ここには二つの理由がある。
まず、ロシアはソ連が崩壊して不完全なままだというコンプレックスから、新世界でリーダーとしてふるまうことができない上に、西側諸国のように自国の自己中心的な関心を、利他的なマスクで隠す術もマスターしていないことにある。
次に、現代世界において、世界的な主導権が簡単に機能しないことにある。熟考された問題を実現するための、公式あるいは非公式なインフラがない。現代世界の現象とは、世界レベルの決定がほとんど機能しないことだ。
もっともわかりやすい例としては、国連関連の環境変化を防ぐ課題の失敗である。国家レベ ルでは、エネルギー効率の向上と温室効果ガスの削減のための技術を導入し始めているが、これは国家が単に利益と競争力のことを考えているからであって、 「人類を救う」ためではない。
ロシアは正式なG8の加盟国となって15年で、当時のエリツィン政権が目指していた国際的な高い地位の確立という課題を実現したし、予想以上の成果をあげた。だが今後の現実的な役割がどうなるのかは、これまでと同様不明のままだ。
そしてエリツィン大統領がG8に列席した1998年のように、再び世界における自国の立場を確立するためには、国際会議で自国を正しくアピールできる能力よりも、国内の発展の質が重要になってくるのだ。
「世界政治の中のロシア」誌編集長フョードル・ルキヤノフ、アガニョーク誌
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