「弱いロシア」の甘い誘い

ナタリア・ミハイレンコ

ナタリア・ミハイレンコ

ボリス・ベレゾフスキー氏は3月23日、ロンドンで死去した。さまざまな報道をもとに推測すると、心臓発作が死因である可能性が高い(その後、英警察の検視結果の発表によると、死因は、首吊りによる窒息死で、争った形跡はなかったというが、ただし、遺体は床に寝ていた状態で、そばにスカーフが落ちていたなど、状況に不審な点がみられるという――編集部注)。ここ数年は、元ビジネス・パートナーのロマン・アブラモヴィッチ氏に法廷争いで負けるなど、さまざまな問題でうつ病が悪化していたことが、死を招いたようだ。

 ベレゾフスキー氏は負けず嫌い、負け知らずのタイプだった。こういった人々にとって、人生と勝利は同義語である。だがここ数年の生活は負け続きで、プーチン氏には徹底的に粉砕された。ベレゾフスキー氏がロシアで金銭援助した人々は、勝利者側にまわったか、あるいは逃げたか、より良い世界を見つけたかのどれかだ。ロシアの改革派は、同氏がメディアを使って若き改革派集団を攻撃したこと、そしてチェチェン武装勢力と黒すぎる関係を持っていたことなどについて、許すことはできなかった。同氏のCIS諸国での試みも失敗続きで、資金援助を行ったウクライナの「オレンジ改革」は悲惨な結果に終わり、資金提供を受けた一人であるユーリヤ・ティモシェンコ氏は逮捕されてしまった。

 

ベレゾフスキー氏が求めたものは? 

 こういったさまざまなできごとを、一面的な心理学で分析することはできない。しばしばベレゾフスキー氏と比較されるレフ・トロツキーも負け知らずであったが、死の直前までスターリンと戦っていた。ホドルコフスキー氏というもう少し近い比較対象を例にあげてみよう。政治的情熱ではベレゾフスキー氏には負けるものの、より困難な状況に置かれていても、精神的に落ち込んでいる様子は見せない。トロツキーはロシアのために戦った、世界的革命のアバンギャルドだ。この定義でいくと、ベレゾフスキー氏はどのようなロシアのために戦ったのだろうか。

 単純な命題を立てるなら、ベレゾフスキー氏には一つの関心ごと以外、いかなる理想もなかったということになるだろう。同氏は自分の心の中に、ロシアに関する夢をとどめていた。

 

「弱いロシア」という理想 

 ある優れた政治学者が1990年代末、ベレゾフスキー氏のような人に必要なのは弱いロシア、すなわち強い政府のないロシアが必要だと私に話した。もろく、未完成な、まとまりきれていない国でのみ、野望を安全に果たせるのだ。ロシアがユーラシア版キプロス島に変わること、つまり低税率と機能しきれていない政府構造があり、国が真っ二つに割れるような状態になっていたら、理想郷となったに違いない。

 キプロス島で金融危機が発生する直前までは、資金保護のためにキプロス島への亡命を考えていたロシアの数千人もの経営者が同じ考えを持ってくれる可能性を、ベレゾフスキー氏は期待できただろう。「弱いロシア」という理想がいかなる精神的苦痛をもたらそうとも、だ。キプロス島で見事に具現化された最小国家システムを、ロシアのビジネス界はお金や預金で支持したのである。

 ベレゾフスキー氏の突然の死と密かな本人の後悔を、ロシアの資金を加えたEUのキプロス島支援と関連づけようとしているわけではない。それでもベレゾフスキー氏のような人にとってこのできごとは、強い中央政府のないロシアという「弱いロシア」の理想をあきらめさせる、決定的な要因になった可能性がある。

 

ポスト・ベレゾフスキー、ポスト・キプロスの時代は? 

 ベレゾフスキー氏は嫌われ、警戒されていたが、ロシアの良い意味で冒険的な人々の多くが、どこかに理想を見いだしていた。今やこういった人々はベレゾフスキー氏とともに、「弱体化したロシア」の魅力に負けるという、致命的な間違いを1990年代に犯したことに気づいた。

 ロシアのビジネスにはこれから、強く勇敢な英雄が必要だ。それは、新しく、「強く、最高権力が機能している」ロシア、そして経済的主導権や政治的競争を認めてくれるようなロシアを築くことのできるような冒険的な人々だ。そしてたとえリスクがあったとしても、資金をふところに抱えて帰国する構えがある英雄は、未来の国民重視の資本主義を築くための、真のインフラとなるのだ。もしかしたら、これはベレゾフスキー氏の最後の望みの実現なのかもしれない。

 

ボリス・メジュエフ、政治学者

記事全文(露語)