世界を魅了したイーゴリ・モイセーエフ
ロシア民族舞踊に革命
アンナ・ガライダ、ロシアNOWへの特別寄稿
 イーゴリ・モイセーエフ名称民族舞踊団の今シーズンのポスターに踊る80という数字。これにはいささか戸惑いを覚えずにはいられない。というのも、モイセーエフはボリショイ劇場やエルミタージュ美術館と同様にいつもこの世に存在していたような気がするからだ。
イーゴリ・モイセーエフ名称民族舞踊団の公演
 ロシア史において1937年という年はソ連の「もっとも大規模な大粛清のとき」と言い換えることができる年である。しかし他ならぬこの時期にモスクワで生まれたのが、その数年後にオープンさ、人生を愛する気持ち、そしてソ連の各民族の完全なるプロフェショナリズムのシンボルとなる舞踊団である。モイセーエフ・アンサンブルというシンプルな名称で、世界中で知られるこの舞踊団、モスクワの人々はただ「モイセーエフのダンサーたち」と呼ぶ。
幸せな偶然
 モイセーエフ・アンサンブルは偶然生まれた。舞踊団創設のアイデアを温めていたのはアンサンブルの名前に冠されている振付師のイーゴリ・モイセーエフである。そのときモイセーエフは若干31歳。しかしその年齢ですでに広く知られる存在であった。 
 バレエを始めたのは遅く14歳のときだったが、それでもモイセーエフはボリショイバレエ団に入団した。


イーゴリ・モイセーエフ名称民族舞踊団の創設者である振付師のイーゴリ・モイセーエフ氏、1976
 ボリショイ劇場のダンサーとなったモイセーエフはアナトリー・ルナチャルスキー教育人民委員(教育大臣)の仲間たちと交流を図るようになる。24歳のとき、劇団を苦境から救うために振付師としてデビューしたが、モイセーエフは「上演間近に迫った」初演を救っただけでなく、「フットボール」というバレエのために素晴らしい振り付けを行い、経験豊かな演出家たちの気力をも失わせることとなり、仲間たちを驚嘆させた。
 この才能は驚くほどの人気を獲得することとなった。赤の広場で行われるピラミッドや数百人から成る縦隊が形を変えていくアクロバティックな作品で構成される伝説的なパレードはモイセーエフのファンタジーと振り付けによるものだ。モイセーエフは与えられたどんな課題にも情熱的に取り組み、あらゆる作品において自身の才能を開花させる手法を見出した。
 しかしモイセーエフがボリショイバレエ団の主席振付家のポストに就くのではないかと思われたとき、ロスチスラフ・ザハロフがこの役職に選ばれることとなった。しかしまさにこのとき、彼は自身の傷をも星に変えることができるという能力を発揮した。モイセーエフは幕ものの長編バレエを創作する計画を、世界の民族舞踊を作品にするというアイデアに大きく練り直すことに力を注いだのである。このアイデアは革命的なものであった。それまで民族舞踊といえば、クラシックバレエの一部として組み入れられていただけで、独自の芸術的価値は認められていなかった。政治家とのパイプを利用して、モイセーエフはすぐにアンサンブル創設の許可を得るのに成功した。
イーゴリ・モイセーエフ名称民族舞踊団のリハーサルの舞台裏で、その80周年記念日に先立って

スターなきアンサンブル
1937年2月10日、新たに創設されたアンサンブルはリハーサルを開始した。アンサンブルには数十人のメンバーが集められたが、そのうちの多くが職業的な教育を受けたことのないダンサーだった。自らの志を貫いたモイセーエフは人の才能を評価する能力があり、そういう力のある人物を見分けることができたのである。実際、モイセーエフはスターがそばにいるのは我慢できず、才能あるダンサーたちを鍛え上げて団結力のある一つのアンサンブルにし、どんなソリストでも大勢のメンバーで行う演目にも参加できるよう育て、その後、今度は巧妙な技で観客席を沸かせられるような力をつけさせた。
 活動はアンサンブル全体で行われた。しかしそれはリハーサル室ではない場所でスタートした。初代のアーティストたちはモイセーエフと共にソ連のあちこちに調査に出かけ、フォークロアの資料を集めて回った。そうして1938年から1939年にかけて生まれたのが「ソ連諸民族のダンス」、また1939年に生まれたのが「沿バルト諸民族のダンス」というプログラムである。アンサンブルはソ連全土をまわり、このプログラムを上演した。公演は第二次世界大戦中も中止されることはなかった。「モイセーエフのダンサーたち」はシベリア、極東の各都市を周っただけでなく、モンゴルでも公演を行い、外国公演を行ったソ連初のアンサンブルの一つとなった。
通訳は要らない
 戦争の終結を機にアンサンブルは世界的に認められるようになっていく。アンサンブルのメンバーたちは破壊された東欧の都市にソ連軍とほぼ同時に入った。彼らの芸術は美しさ、喜び、楽しみ、愛、信頼といった戦争の時代には忘れ去られていたあらゆるものを取り戻させた。ダンスの言葉に通訳は必要なかった。ブルガリア、チェコスロヴァキアなど、社会主義圏の国々でアンサンブルは「スラヴ諸民族のダンス」という新しいプログラムを披露した。
  モイセーエフが彼らの伝統舞踊を舞台の上で実に正確に表現していることに観客は感銘を受けた。しかし奇妙なことに実はモイセーエフはフォークロアを学んだのではなく、写真や絵画、音楽家らの話から、それぞれの民族の舞踊の重要な動きを特定し、あとは自身の想像力を駆使して、その動きに合わせた枠としての効果的なダンスを作ったのである。
 その後、モイセーエフはメキシコ、アジア、西欧の観客たちにも同様の感動を与えることとなる。アンサンブルはソ連芸術のシンボルとなり、ボリショイ劇場がパリやアメリカで公演を行うより前に「鉄のカーテン」を壊し、パリのガルニエ宮やミラノのスカラ座といった歌劇場をも席巻した。
 創設者を失い10年が過ぎた今もモイセーエフ・アンサンブルはほぼ休みなく世界公演を続けている。アンサンブルはどの国を訪れても、公演回数で記録を打ち立てている。中でも人々にもっとも愛されているのが、モイセーエフが振り付けた「ダンスへの道」、「パルチザン組曲」、「アラゴンのホタ」などの作品である。これらのプログラムはボリショイ劇場の「白鳥の湖」にも劣らぬ評価を受けている。
テキスト: アンナ・ガライダ
編集:オレグ・クラスノフ
写真・ビデオ提供: ヴァレンティン・バスチュコフ、ウラジーミル・サヴォスチアノフ/タス通信、 キーラ・ピエフスカヤ/ロシアNOW、YouTube
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