1937年2月10日、新たに創設されたアンサンブルはリハーサルを開始した。アンサンブルには数十人のメンバーが集められたが、そのうちの多くが職業的な教育を受けたことのないダンサーだった。自らの志を貫いたモイセーエフは人の才能を評価する能力があり、そういう力のある人物を見分けることができたのである。実際、モイセーエフはスターがそばにいるのは我慢できず、才能あるダンサーたちを鍛え上げて団結力のある一つのアンサンブルにし、どんなソリストでも大勢のメンバーで行う演目にも参加できるよう育て、その後、今度は巧妙な技で観客席を沸かせられるような力をつけさせた。
活動はアンサンブル全体で行われた。しかしそれはリハーサル室ではない場所でスタートした。初代のアーティストたちはモイセーエフと共にソ連のあちこちに調査に出かけ、フォークロアの資料を集めて回った。そうして1938年から1939年にかけて生まれたのが「ソ連諸民族のダンス」、また1939年に生まれたのが「沿バルト諸民族のダンス」というプログラムである。アンサンブルはソ連全土をまわり、このプログラムを上演した。公演は第二次世界大戦中も中止されることはなかった。「モイセーエフのダンサーたち」はシベリア、極東の各都市を周っただけでなく、モンゴルでも公演を行い、外国公演を行ったソ連初のアンサンブルの一つとなった。