世界的な
ロシアバレエ
5作品

アンナ・ガライダ、ロシアNOWへの特別寄稿
今なお驚異的な人気を誇る珠玉のロシアバレエをその
歴史とともに紹介する。
眠れる森の美女


「クラシックバレエのエンサイクロペディア」と呼ばれる
作品。事実、プロローグとアポテオーズがついた
3幕から成るこのバレエには、ポワントをつけたクラシックダンスやパントマイム
から、民族舞踊、舞台上に作り出された舞台装飾によるヴェルサイユやフォンテーヌブローまで、
3世紀の間にクラシックバレエと
いうジャンルが作り出したすべてが盛り込まれている。
 これらすべてを作り上げたのはマリウス・プティパ (写真)。 19世紀のペテルブルグバレエの神であり、英雄である。彼は1890年に「眠れる森の美女」の初演が行われたとき、すでに30年にわたりマリインスキー劇場の主要なバレエ・マスターの地位にあった。プティパは毎年、
新たな作品をいくつも発表していたが、観客たちは連日レストランで豪華な食事を摂ることを余儀なくされているかのような飽食感を抱いていた。

ьиччбитбит
 しかし「眠れる森の美女」でプティパは72歳という年齢でも革新的な作品を
作り出せるということを証明した。共同制作者となったのは、当時、栄光の絶頂にあり、多大なる尊敬を集めていたピョートル・チャイコフスキー。
「白鳥の湖」が失敗に終わったチャイコフスキーはバレエの作曲から遠ざかっていた。一方、サンクトペテルブルグ帝室バレエ劇場のイワン・フセヴォロシスキー総裁は華やかな夢幻劇を制作するというアイデアに夢中で、また彼は2人の天才の作品を一つにするに十分なエネルギーを備えていた。共同作業は容易なものではなかった。プティパは上演時間4時間に及ぶバレエの構成を詳細に書き出し、作曲家に対し、音楽の雰囲気、テンポ、各章の拍数に至るまでを細かく指示するオーダーを出した。しかしチャイコフスキーはこのような制約に逆にインスピレーションを感じた。そして「眠れぬ森の美女」はチャイコフスキーの傑作と一つとなった。
 バレエ「眠れぬ森の美女」はロシア芸術にとって重要なものとなった。これにより、伝説のバレリーナ、アンナ・パヴロワや美術家の
アレクサンドル・ベノワは子どもの頃に他でもない「眠れぬ森の美女」を観て、自分の人生をバレエに捧げようと決めたのである。
Спящая красавица
Bolshoi theatre
「白鳥の湖」


 ピョートル・チャイコフスキーにとって初のバレエ音楽となった「白鳥の湖」は、初演から140年の間に、多くの人々にとってまさにバレエの同義語となった。このバレエはペテルブルグの帝室劇場ではなく、庶民の街モスクワで初演が行われた数少ないバレエのひとつである。
 1877年、ボリショイ劇場ではヴァツラフ・ライジンガーがバレエの芸術監督を務めていた(写真)。彼の名が現在広く知られているのは、騎士の時代に取材した標準的なバレエの物語としての「白鳥の湖」を読み、それを初めて上演したからにほかならない。
 作品は成功を収めた。とはいえそれは、当時、地方のバレエ劇場と位置付けられていたモスクワのボリショイ劇場にとっての成功である。バレエは27回上演されたが、2年後にはレパートリーから外されることとなった。そして永遠に消えてしまったと思われた。
バレエ「白鳥の湖」第2幕のF. Gaanenによるデコレーションのデザイン
 しかし1894年、マリインスキー劇場がチャイコフスキーを記念するパーティーを開いた際、レフ・イワノフ版の白鳥のシーンを再び上演したのである。
 白鳥の乙女たちが輪になって美しい模様を織りなすホロヴォードと呼ばれるダンスはロシア的なものを具現化したものであり、またその動きは理想的な形で音楽とマッチした。 この成功により「白鳥の湖」は帝室劇場の舞台に再びかけられることとなった。この作品はレフ・イワノフとマリウス・プティパという振付界の2人の天才をひとつの作品に結束させた唯一の作品である。
 その後、「白鳥の湖」は一度ならず改訂された。それぞれの時代に作品の本質を表す何かが含められた。そして「白鳥の湖」にはいくつかの修正が加えられた。1910年代、アレクサンドル・ゴルスキーは「白鳥の湖」の中にロシアの「銀の時代」とモダニズム時代の最後の輝きを表現しようと試み、1930年代、レニングラードではアグリッピナ・ワガノワが作品に漂うブルジョア的モラルを批判した。1960年代になるとユーリー・グリゴローヴィチが作品の中に一人の人間の心の中の善と悪の力の戦いを見出し、1970年代にはジョン・ノイマイヤーが美しい幻想の破滅性をこの中に描いた。
Swan Lake
Bolshoi theatre
 「白鳥の湖」がモスクワでもニューヨークでも東京でもロンドンでも多くの人々を惹きつける特別なものとなったのは、こうして次々と新たなアイデアを取り入れ、表現していく柔軟性があったからであろう。
「バヤデルカ
(ラ・バヤデール)」

 ほんの25年前まで、この「バヤデルカ」がマリインスキー劇場以外の場所で上演されることなど想像すらできなかった。ボリショイ劇場でも「影の王国」のシーンが上演されていただけであった。 しかし1992年、ルドルフ・ヌレエフが自身の死の直前にパリ・オペラ座で全幕を上演した。またその少し前にはナタリア・マカロワが自らの改訂版をアメリカン・バレエ・シアターとイギリス・ロイヤル・バレエ団にオファーしている。
 マリウス・プティパの名作はただただその力強さで圧倒した。
「影の王国」のシーンだけでも、コールドバレエで厳しく育てあげられた32人のダンサーと3人の技巧的ソリスト、そして主役のペアが必要とされる。しかしこの「影」の登場する第3幕までにも、バヤデルカや僧侶、托鉢僧が現れ、聖なる火に祈りを捧げる寺院の儀式のシーン、そして劣らず登場人物の多いラジャ(王)の娘の婚約式のシーンがある。

 第2幕にあるのは宮廷の絢爛な結婚式のシーン。そこでは、数人のソリストを除いても、扇を持ったダンスに12組のペア、オウムとのダンスに12人のダンサー、そのほか黒人の幼児8人、インド人11人、4人のバヤデルカと6人のダンサーが登場する。
 クラシックバレエのデミウルゴス(工匠)であるプティパはおよそ60年にわたってマリインスキー劇場で活動を行ったが、制作費を制限することを知らなかった。プティパが振り付けた一幕ものの小品ですら、辛辣な現代人らは小さな国家の予算を破綻させるほどの資金が投じられたと指摘する。
 一方、「バヤデルカ」がつまらない作品とされることは一度もなかった。プティパはこのバレエを1877年に振り付けたが、その後およそ30年にわたり改訂に改訂を重ね、それを完璧とも言える究極のレベルにまで引き上げた。

 しかしソ連時代に「バヤデルカ」にはさらに改良がなされ、騙されて息絶えるバヤデルカの熱い呼びかけに神たちが応え、彼女の愛する人とその相手の結婚式の最中に寺院を崩壊し、天罰を与えるという第4幕が省略されることとなった。

 しかしプティパの名に隠れて多くの改訂者がいた「白鳥の湖」とは異なり、「バヤデルカ」はプティパの振り付けがオリジナルの形で残されている。その昔、インドの寺院の舞姫が「バヤデルカ(バヤデール)」と呼ばれていたことを知っている者はもう少ないかもしれないが、
多くの観客がこのバレエを鑑賞している。トラとの戦いには勇敢に立ち向かうものの恋愛の駆け引きには弱かった有名な戦士のために引き起こされる、美しいバヤデルカと権力のある領主の娘の対立によって掻き立てられる激しい感情はインドを訪れたことがない人の心にも反響を呼んでいる。
La Bayadere
Bolshoi theatre
「くるみ割り人形」


 ロシアにおいて「くるみ割り人形」のチケットは、雪やもみの木よりももっと必要とされる、クリスマスに絶対に欠かせないものとなっている。白い衣装に身を包んだ「雪の精の踊り」に合わせて歌われる児童合唱団の澄み切った歌声は、クリスマスの奇跡を信じる気持ちをこれ以上ない形で表現している。
 ジョージ・バランシン(本名ゲオルギー・バランチヴァッゼ、写真)はこのバレエに、自身の青年時代、レニングラード・オペラ・バレエ劇場でのキャリア、そして有名なレフ・イワノフ振付の「くるみ割り人形」での素晴らしい道化師役のソロの経験を存分に織り込んだ。常にプティパの第二バレエ・マスターだったレフ・イワノフは2度だけその偉大な影から出たことがあったが、それが「白鳥の湖」の白鳥の場面と「くるみ割り人形」だった。
 バレエの構想そのものはプティパのもので、チャイコフスキーとの共同作業にもう一度トライしようとしたのも、ドイツのロマン派作家E.T.A.ホフマンのおとぎ話に基づくフランスのアレクサンドル・デュマの小説を題材に選んだのもプティパである。そしてプティパが台本の執筆を手がけ、指示書を作曲家に手渡した。しかし最後の最後にプティパははっきりしない理由によって振付から手を引くことになり、自身の助手だったイワノフに3幕もののこの作品を託した。
 結果、イワノフは1892年の新年を前にした初演を実現させたばかりか、今なお最高のバレエ作品とされる「雪の精の踊り」を含む珠玉のバレエ作品を完成したのである。そんな「雪の精の踊り」のオリジナルの振り付けが失われたことは、レオナルド・ダ・ヴィンチの壁画「アンギアーリの戦い」が失われたのと匹敵するほど悔やまれている。
Щелкунчик
Мариинский театр
「スパルタクス」
 ロシアのバレエ団の外国公演で必ず上演が望まれる一作。批評家らの評価はゼロに近いのだが、観客はフィナーレで必ず、まるでサッカークラブ「スパルタク」が決勝ゴールを決めたときのように立ち上がらんばかりとなる。
 グリゴローヴィチの偉大なバレエが完成するまでにアラム・ハチャトゥリアンの音楽が長く幸せな運命を辿ったことを知る者は少ない。
グリゴローヴィチ版が出る前の最初の上演はモスクワのボリショイ劇場とレニングラードのキーロフ劇場(現在のマリインスキー劇場)でほぼ同時に行われた。しかもこれを実現したのは多数の人物が登場する大型舞台の天才イーゴリ・モイセーエフと、エルミタージュ美術館に収められているフレスコ画や花瓶を用いて研究を重ね、ローマ人のダンスの手法を作り上げた20世紀のもっとも革新的な振付師のひとりレオニード・ヤコブソン(写真)であった。
 しかしながら、巨大な権力体制に対抗することができた剣闘士の伝説的栄光をテーマにしたこのバレエが大きな賞賛を受けたのは、1968年に40歳だったユーリー・グリゴローヴィチがモスクワで振り付けたバージョンによってである。グリゴローヴィチは美術家のシモン・ヴィルサラーゼとともに、反乱を起こす奴隷たちが観客席に駆け込んでくるかのような力強さと胸底を吐露するモノローグを組み合わせた作品を作り上げた。作品では、苦しみ、疑いながらも数百人の人々に対する責任を自ら負ったスパルタクスが、残忍で洗練されたローマの将軍クラッススと対峙する。グリゴローヴィチはスパルタクスとクラッススのために、世界の現代バレエに類を見ないほど高い技巧が求められる振付を行った。これによりそのプロフェッショナルかつ歴史的な対立は今なお世界の人々の心を揺さぶるものとなっている。
Spartacus
Bolshoi Theatre
テキスト: アンナ・ガライダ
編集:オレグ・クラスノフ、ヴセヴォロド・プーリャ
写真提供: Getty Images、 AP、 ロイター通信、 AFP/East News、 Damir Yusupov/ボリショイ劇場、アーカイブ写真、
アレクサンドル・クリャーゼフ、 イーゴリ・ルッサク、 レソフ/ロシア通信、
ヴァシーリイ・スミルノフ、ユーリイ・ベリンスキイ/タス通信
デザイン&レイアウト: スラヴァ・ペトラキナ
© 2017 All Right Reserved.
Russia Beyond The Headlines.
info@rbth.com
Made on
Tilda