ムルマンスク市のパネル住宅
Pavel Lvov/Sputnik初期の「パネル住宅」は一風変わったものであった。建築家たちがさまざまな実験を行ったからである。たとえば、1940年にはモスクワのレニングラード大通りに、「透かし彫りの家」が作られた。
これは色こそ灰色であったが、優雅な雑然としたバルコニーを隠す優雅な柵が付けられていた。またチェリョームシキ地区の住宅には、敷地内に噴水が設けられた。
「透かし彫りの家」
Elena Butko (CC BY-SA 4.0) しかし、1950年代、ニキータ・フルシチョフ書記長の時代には、大々的な建設事業が開始された。フルシチョフ書記長の就任直後のスローガンは「無駄をなくす」というものであり、「フルシチョフ住宅」はスターリン様式に対抗するものとなった。
当時の技術では、パネルの塗装は工場ではなく、現場で行われた。また質のよい鮮やかな色の塗料は不足していた。そこで、大部分の住宅は同じタイプのものであり、色もグレーや白、ベージュといったはっきりしない色で塗られた。
モスクワ市の住宅
Getty Images その代わり、建設事業は大規模に進められ、それにより数百万の市民に個々の家を与えることが可能となった。想像してみてほしい。共同住宅や集合バラックで家族と不便な生活を強いられていた人々が、自分だけの家を、無料で与えられたときの喜びがどれほどのものであったのかを。
アナディル
Anna Sorokina一方で例外もある。ロシア極北(サレハルド、アナディル、ノリリスクなど)では、パネル住宅を含め、すべての建物が鮮やかな色で塗られている。これらの遠隔地では、陽光や植物の不足をこうした明るい色で補おうとしているのである。最近ではさらにこうした住宅に、北方をテーマにしたグラフィティが描かれるようになっている。
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