ソ連の空き巣のテクニックについては、「プロ」に聞くのが一番だ。その手口は意外に思えるかもしれない。
「事に当たる時は、事前に、ひと月前から準備した」――我々にこう語ったのはサンクトペテルブルクの老練の空き巣だ。「まずはちょっとした額の金が必要だ。南方、例えばソチへ向かう列車のコンパートメント席の乗車券を買うためだ。列車が出発する当日に私の『劇場』が始まる。息を切らしているふりをしながら駅まで走り、ちょうど良い『客』を探す。私と同じ列車の指定席の券を買った子連れの家族だ。それから『プロモーション』が始まる。私は彼らに、家族全員分のコンパートメント席の券を買ったが、幼い娘が病気になり、妻が残って面倒を見ている。5歳の息子を連れて行くのも私一人では手に負えない。だが職場ですでに休みを取ってしまっている。このままでは券が無駄になってしまう。指定席から移動して、半分の値段、いや4分の1の値段で私と一緒にコンパートメント席に座らないか、お金はもう払ってしまった」。
「フェオドシヤからレニングラード(現サンクトペテルブルク)までは一日半以上かかる。閉鎖的で快適なコンパートメント席に座るチャンスがあるなら、誰が乗客の絶えず行き来する指定席で旅をしたいだろうか。男は怪しい者には見えず、「仲間」のようだ――と親は考える。この『プロモーション』の成功の秘訣は、列車が文字通り10分後に出発するという事実だ。一刻も早い決断が要求される。結果として彼は他人の家族と一緒に南へ行くことになる」。
「添乗員とはコネがあるため、私はコニャックやつまみを手に入れることができる。気付けばもうデッキで父親とタバコを吸っている。私は人気者で、ひょうきん者で、お調子者だ。レニングラードの歴史や、誰がどこに住んでいたかを話し、家の間取りがいかに馬鹿げているかを語る(私とならどんな間取りについても話せる。職業柄、典型的な部屋のことはよく分かるからだ。我が『乗客』はもちろんそんなことは知らない)」。
「『最近ポーランド製の食器棚を買ったんです。そこに便利な戸棚があって、預金をしまっておけるんですよ』と私はもう一杯酒を飲みながら話す。すると、『あら何てこと! 今時食器棚にしまう人がありますか。盗まれますよ! うちは洗濯機の中の洗濯物の下に隠しています』と母親があっけらかんと話す」。
「列車がソチに到着する頃には、私はすでに彼らの住所(身分証明書の住所欄から分かる)と、一家がぐっすり眠っている間に私が作った彼らの鍵の型を手に入れている(朝の4時まで私にしゃべり倒されて、親も子もへとへとなのだ)。一家が休暇を楽しんでいる間、私は次の列車でレニングラードに戻り、音もなく埃も残さずに彼らの家を物色する。シーズン中にこの『巡業』を二、三回繰り返せば、次の夏まで不自由なく暮らせる」。
預金通帳
Public domainソ連には銀行はなかった。社会主義社会に高利貸しの場所はないと考えられていたからだ。国民は預金を貯金局で保管するよう勧められていた。しかし、ソ連の人々の多くは金融に疎く、金を「通帳に移す」ことを恐れていた。金融に精通している人も、長い列に並んで預金通帳から現金を引き出すことを望まなかった。預金は家で保管したり、高価な物(主に高級品やラジカセ、テレビ、腕時計、毛皮のコート、なめし革の半コート)に換えて後で闇市で転売したりすることが好まれた。こうした貴重品すべてが空き巣の標的となった。
泥棒の中にもそれぞれの専門分野があった。「窓破り」は窓から家に侵入し、屋根からロープで降りることもあった。「熊使い」は、ピッキング道具やもっと大きな道具を使って扉や金庫を破った。噂では、金属製の扉が、反対側を建物の入口の耐力壁で支えた貨物車両用のジャッキで破られるという犯行もあった。
しかし、どんなに大規模な盗みでも、最初は観察から始まる。ウクライナの新聞『セヴォードニャ』のインタビューで、元空き巣の人物がこう語っている。「まずは適当な建物を外から視察し、遠目に見ても他より金がありそうな部屋を選ぶ。高価なカーテンが掛かっていたり、ベランダにガラスが張られたりしているので分かる。家の主にこういう余裕があるなら、金も隠してあるに違いない。入口で、一部屋だけでなく、三、四部屋に目星を付け、建物の中に入る。まずは錠を見る。プロの秘密を明かそう。錠が多いほど扉は弱くなる。5個か10個の錠を見れば、もはや思い悩む必要もない。扉の付け根を壊せば良いからだ。しかしこれは空き巣のやることではない。音が出すぎてしまうからだ。我々は素早く隠密に行動する」。
もし部屋を長期間観察するなら、家の主人がどんな車に乗っているか、高価な服や靴を身に付けているかに注意することができる。彼らに資産があることが分かれば、部屋への侵入が始まる。「錠が何とかなりそうだと分かれば、呼び鈴を鳴らす。もし誰かがいれば、たいてい扉を開けるか、どなたですかと尋ねてくる。そうすれば、ヴァーシャかペーチャかラーヤはいますかと尋ねたり、部屋の賃貸の件ですと言ったりして、違う? すみません、間違えました、とごまかせば良い。ふつうは三、四軒のうち一軒は当たりが出る。錠もちょうど良く、家に主人もいない」と空き巣は話す。
ソ連の空き巣被害は深刻だった。1960年には21万374件の空き巣があった。1956年から2倍に増えたのだ。10万人当たりの空き巣件数は100件だった。1960年の刑法では窃盗罪には3年以下の懲役刑が科された。窃盗は集団による犯行であることが多く、複数犯の場合は6年以下の刑が科された。再犯や専用の道具(例えばピッキング道具や合鍵)を使った犯行の場合も同じだった。累犯には15年以下の懲役刑が科された。それでも1961年には窃盗件数は増え、年間22万4000件に上った。
ピッキング道具
GeoTrinity (CC BY-SA 3.0)
上で紹介した空き巣の手口は「五分泥棒」と呼ばれる。これは任意の家を選び、部屋やその中の様子を予め調べることなく、外観から得られる情報だけで犯行に及ぶ手口だ。「実際、我々が部屋にいる時間はもちろん5分ではないが、それでも15~20分以下だ。それ以上長引くと、家の主人が帰ってくる危険が増す。そうなれば窃盗は強盗になり、罪状や刑期が全く変わってしまう」と空き巣は話す。
プロの空き巣は常に、家の住人がいない間に犯行に及ぼうとする。これはかなり前から探りを入れ、窃盗の準備を行っていれば簡単になる。住人の外出・帰宅時間を知るには、夕方、いつ窓に明かりが灯るか、いつ郵便受けが空になるかに注意しなければならない。もう一つ、電気メーターを調べることもできる。ソ連の多くの家では電気メーターは部屋の外、階段のある共用空間にあり、簡単に見ることができた。より手の込んだものでは、玄関扉の前に敷いてある絨毯の下にタバコの灰を置くという方法もあった。
住人がいつ不在か見当が付けば、より自由に行動することができる。「探りを入れた上で事に取り掛かり、不意に家の主が帰ってこないことが分かっていれば、30分から1時間ほど部屋にいることもできる。すべてを引っ掻き回すには十分な時間だ。幅木や扉の枠を剥がしたり、枕の中身をえぐり出したり、冬用のブーツを調べたりする。その際は、まず手引き役が話していたものから手に取り、それから家の『調査』を始める」。
枕やブーツの他、まずは花瓶や植木鉢、引き出し、食器棚が、それから本やシーツ、穀物や調味料を入れた瓶が物色された。要するに、何回かの動作で簡単に出し入れできる所すべてだ。空き巣はがらくたの山を掘り返すことは好まない。「もし『五分泥棒』なら、ベランダは基本的にがらくただらけなので、すべてを掘り返している暇はない。しかも掘り返すのは危険だ。近所に気付かれるかもしれない」と空き巣は「助言」する。
ソ連時代、犯罪の統計は国民に対して一切公開されておらず、最初のデータが公開されたのはソ連時代の末期のことだった。1980年代から1990年代は犯罪が激増し、とりわけ空き巣が横行した。現在、ロシアには銀行システムがあり、現金を毛皮コートや貴重品の中に隠すことはなくなった。空き巣はソ連時代ほど大きな意義を持たなくなった。
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