モスクワの勝利は、ソ連閣僚会議(内閣)・体育スポーツ委員会の野心的なセルゲイ・パヴロフ委員長の尽力によるところが大きい、彼は、ソ連が社会主義国で初の五輪開催国になることを望んでいた。この企図の成功を信じる者は少なかったが、早くも1969年にモスクワは、1976年の五輪開催地に立候補した。
そして意外にも、最初の選考でソ連の首都は、ライバルのモントリオール(カナダ)とロサンゼルスを破った。ソ連は次の選考でカナダに敗れたものの、スタートは切られた。そして1973年にモスクワは再び立候補した――1980年夏季オリンピックの開催地としてだ。
ソ連の体育スポーツ委員会は、15か国のスポーツ関係者を対象に、大がかりなソ連ツアーを企画して、そのなかで観光スポットだけでなくスポーツインフラも紹介し、ソ連の最も有名なスポーツ選手とのインタビューもセットすることにした。
「率直に言うが、ロシアは、もう一つの五輪候補であるロサンゼルスよりもはるかに優れたスポーツ施設と設備を持っている」。英紙「デイリー・テレグラフ」の特派員はこう書いた。
1974年秋、ウィーンで次のことが決まった。史上初めて東ヨーロッパの国がオリンピックを主催し、モスクワが1980年夏季オリンピックの「首都」になる。
こうして、ソ連に80カ国の選手たちがやって来た。ただし、アメリカ、カナダ、ドイツ、日本、中国を含む60カ国以上がこの五輪をボイコットしたが。
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