この公爵家はロシアで最も裕福で、その資産は皇帝自身のそれを上回るほどだった。ユスポフ家の出自はタタール・モンゴル。すなわち、彼らの祖先は、16世紀のノガイ・オルダの統治者ユスフだ。彼は、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の継承国の一つを治めていた。ユスフは、モスクワへの大遠征を準備していたが、彼の弟は、ロシアへの接近を支持していた。ユスフを殺害した後、彼はモスクワと同盟を結び、ユスフの息子たちは、ロシアのツァーリ、イワン雷帝(4世)に仕えることになった。
彼らには相当な領地と貴族の称号が与えられた。ユスポフ家は、後にピョートル1世(大帝)その他の皇帝たちに忠実に仕え、名だたる政治家を輩出した。有名なユスポフの一人は、外交官・美術収集家、そしてエルミタージュ館長だったニコライ・ボリソヴィチ(1750~1831)だ。
しかし、最も名を馳せたのは、「怪僧」、グリゴリー・ラスプーチンの殺害者の一人、フェリックス・ユスポフ(1887~1967)だろう。彼は、ニコライ2世の姪であるイリーナ・アレクサンドロヴナと結婚し、ロマノフ家の縁戚だった。
モスクワの「シェレメーチエヴォ国際空港」の名前は、この伯爵家にちなんで付けられた。空港は、この一門、より正確にはセルゲイ・ドミトリエヴィチ(1844~1918)の旧領にあるからだ。
多くの人が「シェレメーチェフ」という姓を誤って「シェレメーチエフ」と呼んでいるが、「シェレメーチエフ」は所有格であり、「シェレメーチェフ家の」を意味する。「シェレメーチエヴォ」は「シェレメーチェフ家の村」といった意味になる。この言葉が、後にはその名を冠した駅の名が、空港に付けられたわけだ。
シェレメーチェフ家は、古い大貴族であり、ロマノフ家と共通の先祖もいた。イワン・カリタ(イワン1世)に仕えた大貴族アンドレイ・コブイラだ。シェレメーチェフ家は常に政権中枢に地位を占め、大貴族会議のメンバーでもあった。ピョートル1世が爵位を導入したとき、初めて伯爵を授けられたのは、ボリス・ペトローヴィチ・シェレメーチェフだ。
ニコライ・ペトローヴィチ伯爵も有名になった。彼は、広大な領地をもち、そのなかには、父親が建てた、モスクワのクスコヴォやオスタンキノの宮殿も含まれていた。彼は、帝国最大の資産家の一人であり、芸術のパトロンだった。自分の農奴だった女優・ソプラノ歌手のプラスコヴィア・ジェムチュゴワと結婚したことでも知られた。この貴賤結婚のために、彼は皇帝に許可を求めている。 彼の農奴の中から著名な建築家や芸術家が生まれたのは、いずれも彼が才能を見抜いて、教育費を出したからだ。
19世紀にこんな冗談が流行った。サンクトペテルブルクのネフスキー大通りを歩く10人のうち、少なくとも1人は必ずゴリーツィン公爵だ、と。確かに、この一門は、ロシア貴族の中で最も数が多かった。早くも16世紀に4つの大きな系統に分かれ、さらに信じ難いほど増えていった。
ゴリーツィン公爵家は、14世紀のリトアニア大公ゲディミナスを祖とする。この姓は、最初はあだ名だった。ミハイル・ブルガーコフ・ゴリツァは、モスクワ大公のワシリー3世に仕える大貴族だった(彼が左手に、甲冑の籠手の皮手袋〈ゴリツァ〉をつけていたため、こんなあだ名がついた)。ゴリーツィン家は、モスクワとその周辺に広大な土地を有していた。大ヴャジョムイと小ヴャジョムイ、クズミンキなどで、一時はアルハンゲリスコエも領していた。
ゴリーツィン家の人々は、多くのツァーリ、皇帝の側近だった。イワン雷帝の治下で地方長官を務めた者や、ピョートル1世の姉で一時、事実上の君主だった皇女ソフィアの寵臣もいた。
同家の女性たちにも、有名になった者がいた。たとえば、ナタリア・ペトロヴナ・ゴリーツィナは、4人の皇帝の宮廷の女官であり、プーシキンの短編『スペードの女王』のモデルだ。
ドルゴルーコフ公爵たちは、リューリクの末裔だ。しかし彼らは、モスクワの建設者であるユーリー・ドルゴルーキー公とは関係ない。
彼らの祖先は、リューリクの末で15世紀に生きたイワン・オボレンスキー公だ。彼は、その執念深さと、敵がどこに隠れようと襲う能力から、ドルゴルーキー(手長)というあだ名が付いた。
一族の多くは時の政権の高位を占めた。マリア・ドルゴルーコワは、ロマノフ朝初代ツァーリ、ミハイル・フョードロヴィチの妻だが、子を産まずに亡くなった。
18世紀になると、この一門は再び、ロマノフ家のほぼ縁戚になる。エカチェリーナ・ドルゴルーコワ公女は、ピョートル2世の許嫁だったが、若い皇帝は結婚前に亡くなった。そして事実上、彼の治世中にロシアを実際に治めていたのは、他ならぬドルゴルーコフ家だった。19世紀後半、エカチェリーナ・ドルゴルーコワは、皇帝アレクサンドル2世の愛人になる。
この古い家柄の貴族は、タタール系で、おそらく祖先は、ナルイシの通称で呼ばれたクリミア・タタール人だ。彼は、モスクワ大公のイワンの3世(大帝)に廷臣として仕えた。
17世紀末まで、この一族はそれほど重要ではなく、むしろ小貴族と考えられていた。しかし、ツァーリ、アレクセイ・ミハイロヴィチがナタリア・ナルイシキナと結婚すると、一門は目くるめく出世を遂げ、多数の者が大貴族にのし上がった。ナタリアはピョートル1世の生母であり、その後ナルイシキン家は常にロマノフ朝の宮廷で重きをなした。
ナルイシキン家は伯爵や公爵になることはなかった。彼らには何度かさまざまな称号が提示されたが、どれもピョートル1世の親族にふさわしいものではなかった。
ナルイシキン家は、モスクワに広大な領地をもち、その姓は、建築様式「ナルイシキン・バロック」のおかげで歴史に名を残した。この様式で、17世紀末~18世紀前半に多くの教会が建てられた。最初のそうした教会の1つが、ナルイシキン領だったフィリのポクロフ教会だ。
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