ピョートル大帝は、後継者を指名する暇もなく死去し、遺言も残さなかった。ところが、1836年に、皇帝の遺言書が――実は書かれていたのに行方不明だったという触れ込みで――、フランスで出版された。
シュヴァリエ・デオン及びマドモワゼル・ド・ボーモン。 ロンドンマガジンの風刺画、1777年
Public domain出版社の主張によると、その遺書は、1757年に大帝の娘、女帝エリザヴェータ・ペトローヴナの極秘文書から、シュヴァリエ・デオン(1728~1810)により発見されたという。興味深いことに、デオンは、フランスの外交官でスパイであり、1755 年にはサンクトペテルブルクを実際に訪れている。彼は、人生の半分は女装して過ごした。
ピョートル大帝の筆跡:速書き (上) と、より解読しやすいきちんとした筆跡 (下)
Archive photo公開された文書は「ヨーロッパ支配のための計画のコピー」と呼ばれ、14項目が含まれていた。 遺言書は、後継者への命令の体裁になっている。皇帝の命令のなかには次のようなものが含まれていた。
全体として、この文書は、ピョートルの後継者が欧州およびアジアの、当時知られていたすべての地域を征服するように命じている。しかし、言うまでもなく、この「遺書」はロシア帝国で認められた形式に合致しておらず、財産や帝位に関する命令も含まれていない。そのこと自体が、「遺言」が偽物であることを示している。また、オランダや中国との関係など、“本物”のピョートルにとって非常に重要だった外交政策の分野も含まれていなかった。
にもかかわらず、「遺言」は何度も再版され、クリミア戦争中には、「ロシアの真の目的」を証明するために、盛んに利用された。そして、ロシアでは歴史家セルゲイ・シュビンスキーの論文によってその虚偽が1877年に証明されたものの、その後も「遺言」は、対ロシア関係で浮上し続ける。第一次世界大戦中にはまたも出版され、ペルシャ語にも翻訳されている。
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