ロシア人はジョン・F・ケネディ暗殺にどう反応したか:「ダラスの熱い日」から60年

Robert Knudsen
 ソ連では、ケネディ暗殺が実に厄介な問題を引き起こした。そして、当局はありとあらゆる方法でそれを解決しようとした。

 その日は暖かく晴れた日で、第35代アメリカ合衆国大統領の車列が、テキサス州ダラスのエルム通りをゆっくり走っていた。車の屋根(バブルトップ)は、人々が自分の選んだ人物を目にすることができるよう、予め取り外されていた。ケネディ大統領は、妻ジャクリーンと二、三言葉を交わした後、群衆に向き直り、近くにいた子供に数回手を振った。その直後の12時30分、テキサス教科書倉庫ビルの6階から発射された銃弾3発のうち2発が大統領に命中した。30分後に病院で、彼の死亡が確認された。

 米国大統領暗殺のニュースは、ソ連を含む全世界を震撼させた。ソ連共産党中央委員会の第一書記ニキータ・フルシチョフは、補佐官に起こされ、「ケネディが殺された!」と告げられた。いくつかの証言によると、彼が最初に尋ねたのは、「我々はこれに何か関わっているのか?」だった。

ソ連の懸念  

 この状況に、ソ連の最高指導者は、奇妙な問いを発したが、それには理由があった。大統領殺害容疑で起訴されたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、ソ連と関係があったことが判明したからだ。

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 オズワルドは、ソ連に2年間暮らし、ソ連国籍を申請したが失敗し、ロシア人女性と結婚した。そして、社会主義体制に幻滅し、米国大統領暗殺の前年である1962年に祖国に戻った。

リー・ハーヴェイ・オズワルドの逮捕状

 暗殺の報を受けて、ソ連の秘密警察「KGB」内で緊急会議が開かれた。2017年に機密解除された諜報報告書によると、ニューヨークのKGBを指揮していたボリス・イワノフ大佐は、スタッフを集めて、ケネディ暗殺は「問題」だと語ったという。

 ケネディ政権下で、米ソ両国はついに、長引く「冷戦」から脱却し始めていた。暗殺の5か月前、1963年5月、ケネディは両国について次のように述べていた。

 「結局のところ、我々両国の最も基本的な共通点は、我々全員がこの小さな惑星に住んでいるということだ。我々は皆、同じ空気を吸っている。我々は皆、子供たちの将来を大切にしている。そして我々は皆、死すべき存在なのだ」

 初の月面有人着陸も、米ソ共同となる可能性があった。元NASA諮問委員のジョン・ログスドンは、ケネディ大統領がいっしょにやろうと申し出たが、フルシチョフが断ったと語っている

 大統領が亡くなった今、ソ連指導部は、急進的な反ソ勢力がこの状況を利用し得ると考えた。アーカイブによると、クレムリンは、「混乱し、衝撃を受けた」。

 「ソ連指導部は、(米国に)指導者がいなくなった今、無責任な将軍がソ連にミサイル攻撃を仕掛けるかもしれないと懸念していた」

ケネディの死を悼む弔鐘

 このニュースは瞬く間に広まり、朝にはソ連の誰もが、ケネディ暗殺を知っていた。若く、ハンサムで、金持ちで、ソ連との平和を望んでいた――ソ連の人々はケネディ夫妻を愛していた。彼の殺害は、多くの人の涙を誘った。「ケネディ大統領を追悼して教会の鐘が鳴り響いていた」と、当時ロシアにあった米情報機関の筋は回想している。

 1963年11月23日、新聞「ネデーリャ」は、ケネディの肖像写真を一面全面に載せた。こうした形式の写真は、ソ連共産党中央委員会の幹部のメンバーのみに使われたが、幹部は、この決定を承認した。彼らはケネディの死を悼んだ。

 『ニキータ・フルシチョフ:改革者』――ソ連の指導者の息子、セルゲイ・フルシチョフの回想録――のなかで、著者は、彼の父もまた、大統領殺害の報を聞いて、ひざまずいてすすり泣いたという。そう、ソ連にとってジョン・ケネディは希望だった。しかし、彼の死後には厄介な問題が生じた。

ケネディ大統領とニキータ・フルシチョフ、1961年6月4日、オーストリアのウィーンで開催された首脳会談にて

オズワルドからソ連を“守る”

 ソ連における米諜報員からの報告に基づく、機密解除された文書によると、クレムリンは、この暗殺がケネディ政権の方針に不満を抱く極右勢力の陰謀であり、当時の副大統領リンドン・ジョンソンがその黒幕だったと考えていた。ジョンソンは、ケネディ暗殺後に米大統領となっている。

 こうした見方は、ルイジアナ州ニューオーリンズの地方検事ジム・ギャリソンによる、1966年の調査結果とも一致している。

 にもかかわらず、暗殺にソ連(およびキューバ)が関与しているという説は、米国で非常に広まっており、メディアで流布された。ソ連は自国を守る必要があると判断した。

 「ケネディ大統領が米国の『左翼勢力』――その代表格が米国共産党――によって殺害された可能性がある、などと考えるのは偏執狂だけだ」。米法務省の文書の1つに、当時のソ連指導部の立場がこう記されている。

ロバート・ケネディ(左)とリンドン・ジョンソン(右)

 リー・ハーヴェイ・オズワルドに関して言えば、ソ連の指導層は彼を「偏執的な狂人で、祖国に対しても、その他の誰に対しても不誠実」と決めつけ始めた。KGBは「浄化」を行った。つまり、ミンスクのオズワルドの知人全員から、彼の写真と手紙を押収した、とエルンスト・チトヴェツ教授は振り返っている。彼は、1960年代に医学生であり、オズワルドと知り合いだった。

 ソ連外務省とKGBは、報道陣向けに、オズワルドは決してソ連当局と関係しておらず、犯人は米国で捜索されるべきである、とする共同声明も作成した。また、政治局への秘密の添付文書には、こう記されていた。米国からの要請があれば、ソ連におけるオズワルド関連の資料すべてを提供する用意がある、と。しかし、上の声明は、リュウェリン・トンプソン駐ソ連・米国大使との交渉の末、公表されることはなかった。

 「あらゆる点から見て、米国政府は、わが国(ソ連)をこの問題に巻き込みたくないようだが、極右との争いも望んでいないと思われる。この問題をなるべく早く忘れたがっているのは明らかだ…。今後のわが国の報道機関の声明では、この点が考慮されるべきだと私は思う」。最高会議幹部会議長アナスタス・ミコヤンは秘密の書簡でこう書いている

オズワルド、ミンスクにて、工場の同僚達と一緒に

 こうした状況のなか、結局、偽情報が流されることになった。1960年代、ソ連の諜報機関は、ケネディ暗殺にCIAが関係しているという噂を広め、また米国人弁護士マーク・レーンに資金提供した。彼は、ケネディ暗殺に関するいくつかのスキャンダラスなベストセラーの著者だ(1966年の『急ぎ過ぎた判決』(邦題『ケネディ暗殺の謎―オズワルド弁護人の反証』〈中野国男 翻訳〉)など)。

 この本では、CIAの関与について語られており、陰謀論者にとっての主要な情報源の1つとなっている。これについては、ウィンストン・チャーチル・アーカイブセンターの文書に詳しく説明されている。

 これらすべてがソ連への矛先を鈍らせることになった。ソ連で非常に懸念されたキューバ危機の悪化は起こらなかった。そして、その後の捜査では、ソ連が殺人に関与したという証拠は見つからなかった。

 1999年、ケルンで、ロシアのボリス・エリツィン大統領は、ソ連の秘密文書から、オズワルドと暗殺に対するソ連の反応について記された80頁の書類を、米大統領ビル・クリントンに渡した。 クリントンはそのとき、「予期せぬ重要な贈り物に感謝したい」と述べた

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