革命以前、ロシアの農民は、暦をほとんど知らなかった。彼らは、教会の祝日と精進(斎 〈ものいみ〉)の時期を目途にして暮らしていた。また彼らは、司祭が、精進を守らないせいで罰(苦行)を課し、さらには教会から破門するのでは、と非常に恐れていた。そこで、精進とさまざまな規則を守ろうと努めた。
年間に 4 つの長い精進期がある。
ちなみに、農村では、精進の遵守状況は、司祭その他の教会関係者だけでなく、農民のコミュニティも監視していた。ロシアを訪れた外国人は、農民たちが精進中に卵や牛乳を売らなかったことに驚いている。
また、歴史家エレーナ・センニツカヤの記すところによると、旅行者たちは、ロシア人が薬を飲むよりも病気で死ぬことを選んだことに、衝撃を受けたという。ただし、その薬が精進期に投与できるものだったかどうかは定かではない。ロシアの医師たちは、精進期には肉、卵、牛乳、バターを含む薬を与えないことを誓っていた。
しかし、ここで肝心なのは、すべての長期にわたる精進の間は、性的接触は厳しく禁じられていたことだ。だから、ロシアの農村では、出生率は、2つの月がピークだった。すなわち、6月(「生神女就寝祭の斎」の後の9~10月に妊娠)。そして、1~2月だ(大斎の後の5~6月に妊娠)。盛夏の厳しい農繁期は、妊娠はほとんどなかった。夏の重労働で疲労困憊したためだ。それが「繁忙期の絶頂」と呼ばれたのも当然だった。
ロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。