なぜロシアには射手座と蠍座の人がほぼいなかったのか?

Kirill Lemokh

 革命以前、ロシアの農民は、暦をほとんど知らなかった。彼らは、教会の祝日と精進(斎 〈ものいみ〉)の時期を目途にして暮らしていた。また彼らは、司祭が、精進を守らないせいで罰(苦行)を課し、さらには教会から破門するのでは、と非常に恐れていた。そこで、精進とさまざまな規則を守ろうと努めた。

 年間に 4 つの長い精進期がある。

  •  大斎(おおものいみ)――「復活大祭」前の 48 日間(3 月~ 4 月の 1 か月半)
  •  聖使徒の斎 ―― 復活大祭の 57 日後から 7 月 12 日(ペトル・パウェル祭)まで
  •  生神女就寝祭(*カトリック教会の聖母被昇天の大祝日に相当)の斎 ―― 8 月 14 ~ 27 日
  •  フィリップの斎 ―― 11月28日 ~ 1月7日(降誕祭) 

 ちなみに、農村では、精進の遵守状況は、司祭その他の教会関係者だけでなく、農民のコミュニティも監視していた。ロシアを訪れた外国人は、農民たちが精進中に卵や牛乳を売らなかったことに驚いている。

 また、歴史家エレーナ・センニツカヤの記すところによると、旅行者たちは、ロシア人が薬を飲むよりも病気で死ぬことを選んだことに、衝撃を受けたという。ただし、その薬が精進期に投与できるものだったかどうかは定かではない。ロシアの医師たちは、精進期には肉、卵、牛乳、バターを含む薬を与えないことを誓っていた。

 しかし、ここで肝心なのは、すべての長期にわたる精進の間は、性的接触は厳しく禁じられていたことだ。だから、ロシアの農村では、出生率は、2つの月がピークだった。すなわち、6月(「生神女就寝祭の斎」の後の9~10月に妊娠)。そして、1~2月だ(大斎の後の5~6月に妊娠)。盛夏の厳しい農繁期は、妊娠はほとんどなかった。夏の重労働で疲労困憊したためだ。それが「繁忙期の絶頂」と呼ばれたのも当然だった。

 ロシア・ビヨンドがTelegramで登場!ぜひフォローをお願いします!>>>

もっと読む:

このウェブサイトはクッキーを使用している。詳細は こちらを クリックしてください。

クッキーを受け入れる