ヒトラーの対ソ計画:ソ連に勝利したら住民をどうするつもりだったのか…

Keystone-France/Gamma-Keystone via Getty Images
 ナチス・ドイツは、ソ連の住民の一部を絶滅させ、残りは、奴隷化するか、ソ連のアジア地域に追放することを計画していた。

 1941 年 6 月 22 日、ドイツ軍は、ソ連の西部国境を越え、赤軍の防御を突破してレニングラード(現サンクトペテルブルク)、モスクワ、キエフの方向に進撃した。そして、比較的短期間に、ウクライナ、ベラルーシ、バルト三国の広大な領域を占領した。

 1941年のドイツ軍司令部の計画には、ソ連の首都モスクワの占領が含まれていたが、周知の通り、失敗に終わった。翌年、ドイツ軍は、ヴォルガ川への進出、スターリングラードと豊富な油田があるコーカサスの占領を目指した。

ソ連領地で戦うドイツ軍兵士

 しかし、ヒトラーの「ボリシェヴィキに対する遠征」の最終目標は何だったのか?ドイツ軍はどこまで進むべきだったのか?そして、ソ連が敗北した場合、どのような運命が待っていたのか?

征服そして…

 ナチスは、太平洋岸に至るまでのすべてのソ連領土を占領することはできないことをよく知っていた。「ロシア領は途轍もなく広大だから、完全な征服は絶対に不可能だ」。国防軍最高司令部(OKW)総長ヴィルヘルム・カイテル元帥はこう述べている。

 ドイツ軍は、6~10週間で赤軍を敗北させて、ヴォルガ川・白海の都市アルハンゲリスクのラインに到達する計画だった。ソ連への侵攻作戦「バルバロッサ作戦」によれば、防衛線「ロシアのアジア地域に対する障壁」を築くはずだった。「ロシアに最後に残る、ウラル地域の工業地帯は、空爆で無力化できる」と、この作戦には記されていた。

ナチスに焼かれた村の廃墟で泣くソ連人女性

 ドイツ軍の初期の著しい戦果により、この作戦・戦略ラインはさらに東に、ウラル山脈そのものにまで大きくシフトされた。「帝国の安全は、ウラル以西に外国の軍隊が一つも残らない場合にのみ確保される。この地域の防衛は…ドイツが自ら行う」。ヒトラーは1941年7月16日に述べた。

 ドイツは次のように想定していた。ソ連は、コーカサスの石油を奪われて(シベリアの油田はまだ発見されていなかった)、敗北するだろう。そうなれば、ソ連は単一国家としては、ヨーロッパの政治地図から消え去るのみであり、その残存勢力は決してドイツを脅かすことはできないだろう。ソ連は、これと同時に、極東全体とバイカル湖までのシベリアの一部を失うことになる。この地域は、日本が対ソ作戦準備「関東軍特種演習」(略称は関特演)に基づいて占領するはずである――。

 ヒトラーは、欧州の同盟国から「分け前」の権利を奪うつもりはなかった。フィンランドにはカレリア東部と地上から一掃されたレニングラードを、そしてルーマニアにはベッサラビアとウクライナの一部を与える予定だった。

 とはいえ、ナチスの指導者たちは、占領地の行政と領土の構造についてはっきりした構想はもっていなかった。将来的には第三帝国に併合される地域もあれば、半ば従属した地域やいわゆる「軍事植民地」もあるだろう、と漠然と考えていた。

 その間にも、占領地には行政単位、すなわち「国家弁務官統治区域」が設立され、徹底的な略奪が行われた。ソ連領の経済的搾取の責任者だったヘルマン・ゲーリング空軍元帥は次のように述べた。

 「東方で私は略奪する。しかも効果的に略奪するつもりだ。ドイツ東部の住民にとって有用なものはすべて迅速に奪い、ドイツに搬送しなければならない」

植民地化

 しかし、戦いはまだ終わっておらず、赤軍は敗北していなかった。にもかかわらず、第三帝国では、ドイツ人の定住のために獲得した「生存圏」の利用方法についてすでに盛んに計画を立てていた。とくに、ソ連領の「ゲルマン化」に関するプロジェクトは、国家保安本部、東部占領地域省、ドイツ労働戦線、国防軍最高司令部が提案していた。

ナチスの爆撃で破壊された家を後にするレニングラードの人々

 いくつかの機関が共同で作成したいわゆる「東部総合計画」は、その一部の内容しか知られていない。しかし、そこには、次のように述べられていた。

 戦争終結後30年以内に、ドイツの支配下にある地元民は、旧ソ連のヨーロッパ地域では、1,400万人以下となるべきだった。残りの4,000万~5,000万人は、西シベリアに再定住させることになっていた。「ヨーロッパ精神で育った」バルト三国の民族(主にエストニア人とラトビア人)は、「ゲルマン化」する予定だった。

 しかし、「再定住」の開始を待たずに、ナチスは、戦争初期から「人種的に望ましくない」住民の殲滅を始めた。ユダヤ人、ロマ(ジプシー)、赤軍の政治的指導層に対して大量処刑が行われた。そして、占領地、捕虜収容所、包囲されたレニングラードで、飢餓が意図的に組織され、その結果、700万人以下が死亡した。

 総統大本営の法務官ハインリヒ・ピッケルは、旧ソ連領のゲルマン化に関するヒトラーの考えを次のように記録している。

 「総統の東方政策の目標は、将来的にはゲルマン民族の一億人が定住するために、この地域を掌握することである。ドイツ人を100万人単位で次々とそこへ送り込むためには、揺るぎない信念であらゆる努力が傾けられなければならない。遅くとも10年後までに、ドイツに併合されたかドイツ軍が占領している東部の地域に、少なくとも2,000万人のドイツ人が定住している。こうした報告を総統は受け取りたいと考えている」

ナチスの強制収容所マジャダネクの子供たち

 1941年9月、ヒトラーは次のように語った。「ロシア領に定住する際には、『帝国農民』に豪奢な住居を提供しなければならない。ドイツの各機関は壮大な建築、つまり総督の宮殿風の建物に置かれるべきだ。ドイツ人の生活に必要なものはすべて彼らの周りで栽培される。市内の半径 30~40 キロメートル以内にあるドイツの村々は、驚くほど美しく、互いに最高の道路で結ばれている。別の世界が生まれ、そこでロシア人は好きなように生きることを許されるだろう。ただし、条件が 1 つある。主人は我々であるということだ」 

 ロシア人の児童は公立学校で学ぶことになっていたが、4学年しかなかった。ナチスのイデオローグらによれば、児童は、自分の名前が書けて、500まで数えられればよい。そして次の点を肝に銘じるべきである。すなわち、「神は、ドイツ人に対して従順であり、正直で勤勉で品行方正であることを求めている」。

 こうして、ロシア人は、原始的な水準に引き下げられ、(質の高い医療の剥奪により)減少していく。そして彼らは、「分割統治」の原則に従って管理されるべきである。「ゴーリキー市(現ニジニ・ノヴゴロド)の『国家弁務官統治区域』に住むロシア人は、自分たちはトゥーラの『国家弁務官統治区域』のロシア人よりはマシであるという感覚を植え付けられるべきだ」。東部占領地域省の職員エアハルト・ヴェッツェルはこう主張した。

 ソ連領の植民地化のためのプロジェクトは、最終的に軍事的成功がナチスを見放した後でも、戦争の全期間を通じて作成され続けた。1945年4月、赤軍はすでにベルリンを砲撃していたが、ヒトラーは夕食のテーブルに座りながら、ドイツ国民の「東方生存圏」について話し続けた。

ロシア・ビヨンドがTelegramで登場!是非ご購読ください!>>>

もっと読む:

このウェブサイトはクッキーを使用している。詳細は こちらを クリックしてください。

クッキーを受け入れる