「タスの窓」:ソ連の画家たちはいかにファシズムに対する勝利に貢献したか

V.Goryev, V.Ivanov, P.Sokolov-Skalya/TASS
 画家たちは、3 交代制で働き、軍と後方の英雄たちを鼓舞するために、毎日 1千枚のポスターを制作した。

 1941年6月22日、ソ連領内で大祖国戦争(独ソ戦)が始まった。欧米にとっては、第二次世界大戦の東部戦線だ。早くもその3日後の6月25日、プロパガンダ・ポスターを制作する編集部が発足した。これは「タスの窓」と呼ばれた。

1500万枚のポスター

 ポスターを発案したのは、「芸術家同盟」のモスクワ支部のメンバーであるミハイル・チェルヌイフ、ニコライ・デニソフスキー、パーヴェル・ソコロフ=スカリャだった。彼らは、軍事的なテーマで、鮮烈なイラストと痛烈な四行詩を組み合わせたポスターを作ることを提案した。ポスターは、赤軍と後方の労働者の士気を高めるものでなければならなかった。このプロジェクトの主な画家は、有名な3人組の漫画家「ククルイニクスイ」だ。すなわち、ニコライ・クプリヤノフ、ポルフィリー・クルイロフ、ニコライ・ソコロフの3人。 

「助けて!」
息子は母親にしがみついた。彼は、叫ぶこともできず凝視している。血塗れの銃剣が、ナチスの悪者の手に握られている。ロシアの子供と女性の運命は、ドイツの虐殺者によって定まった。…聞こえるか?子供のか細い声が呼び求めている。「助けてください!」と。

 「タスТАСС」は略称で、正式名称は「ソビエト連邦通信社」 “Телеграфное Агентство Советского Союза”。情報局のすべての情報は、この通信局を通った。だから、この通信局がどこよりも先にニュースに接したわけだ。このため、タスは、ニュースの内容の管理とその報道の効率化を任されていた。

「コサックよ、ドイツ兵を斬れ!」 
コサックよ、斬って斬って、斬りまくれ!黄金色のドンの草原で、ドイツ兵たちが、お前たちの刃の切れ味を味わい、永遠の眠りにつくように!

 これらの軍事ポスターは、革命後の有名なポスター「ロスタの窓」の名を受け継いでいる。宣伝ポスター「ロスタの窓」は、同じ通信局によって、内戦中に赤軍を支えるべく制作された。この通信局は、当時は「ロシア通信社」“Российское Телеграфное агентство” と呼ばれ、略称は「ロスタ РОСТА」。ポスターは、空いているショーウインドーに張られたので、「窓」と呼ばれた。

「子供の殺人者たちに死を!」
……今や母親も父親もなく、2羽の雛鳥が、2人の子供が孤児となって取り残された。彼らの命はあとわずかだ。殺人者はもう銃を構えている。…子供たちの血のために、我々の名誉のために 復讐せよ!

 編集室での作業は、原画の制作から完成したポスターの配布まで、24時間を超えてはならず、また絵には10色以上を使用できないという厳しいものだった。チームでは、 560人の画家が3交代制で働き、毎日最大 1千作品が制作された。

それらは獣ではない――荒々しい叫び声を上げ、荒れ狂う流れに突進するものたちは。
それは、ヒトラーが「フリッツたち」を次々と東へと駆り立てているのだ。ここでは、すべての窓は銃眼であり、すべての茂みが死を隠している。ここでは、だまされた「フリッツたち」は、異国の土を食らい、十字架に変わるだろう。

 「窓」は、ステンシルを使って印刷された。これは、手作業をともなう印刷方法だ。型紙の切り抜いた部分に彩色し、型紙をはがす。手間と時間がかからない印刷方法も使えたが、それだとポスターはあまり鮮やかにならなかった。

「我らの頭文字は『ゲー Г』
 ゴリラたちがドイツに棲んでいる。ヘス、ヒトラー、ゲーリングとその仲間だ。
 *「ゲー Г』はラテン文字の「G」に当たり、ロシア語表記では、ヘス、ヒトラー、ゲーリングの苗字はいずれも「ゲー」で始まる。

 1941年6月25日から1946年12月29日までに、実に1,500万枚のポスターが制作された。それらは前線に送られ、掲示板、街灯柱、店の窓、フェンスなどに貼り付けられた。また、パルチザンのために特別なポスターが作られた。30x20cmの小さなビラ、パンフレットだ。

「民衆の復讐者たち」

 しかし実際には、ポスターの数ははるかに多かった。モスクワのものに似ているが異なる名称で、ソ連のさまざまな都市で制作されたからだ。レニングラード(現サンクトペテルブルク)、イルクーツク、クイビシェフ(現サマーラ)、ゴーリキー(現ニジニ・ノヴゴロド)、ペルミなどの都市でも作られた。 

息子よ、私はお前を胸に抱きしめていた。私はお前を愛し、誇りに思っていた。
 そして今、母性の力の限り、お前に頼む。
 敵を撃て!頭上にロシア国旗の絹がはためく。
 お前がドイツ兵を殺すたびに、母国への負債が支払われるのだ。

ナチスの宣伝に対する勝利

 ナチス・ドイツの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスは、ドイツ軍を嘲弄するポスターに激怒した。 そして、「窓」の編集部の全スタッフが、欠席裁判で死刑を宣告された。複製が海外にも送られたので、これらの痛烈なカリカチュアは世界中で知られていた。

「狂気の総司令官の引見」
 東部戦線の将軍「どうすればいいですか、我が総統?」
 ヒトラー「ちょっと待った!考えをまとめさせてくれ」

 「タスの窓」を通じて、大祖国戦争(独ソ戦)の歴史の中で最も重要な瞬間を跡づけることができる。それらの多くは、英雄的な行為と戦いをテーマとしている。たとえば、下のポスターは、爆撃機のパイロット、ニコライ・ガステロの偉業に捧げられている。彼は、被弾し炎上した乗機から離脱せず、敵の車列に突っ込み、爆破した。 

「ガステロ大尉の英雄的な戦死」 
 彼の乗機の燃料タンクが炎上したとき、もはや助かる可能性はなかったとき、彼が最期の瞬間を迎えたとき、彼は、その最期の瞬間を勝利に捧げた、息を引き取る間際を国のために捧げた!

画家たちの偉業

 編集部では、厳しい労働条件にもかかわらず、ポスターを制作し続けた。「モスクワの戦い」の間、石油溶剤が不足していたので、画家たちはテレビン油とアセトンを使って作業した。夜間は、灯火管制のため窓を開けることが禁じられた。そのため、夜勤では3~6人のスタッフが中毒して救急車で運ばれた。

祖国ソ連のために、ソ連のすべての民族の息子たちが戦いに赴く。赤軍万歳!ソ連の諸民族の兄弟愛と友情の軍隊、万歳!

 ドイツ軍に完全包囲されたレニングラードでは、1942 年春に編集部に残っていたのはたった 1 人のスタッフ、ワシリー・セリヴァーノフだけだった。彼は、画家と編集者の仕事を兼ね、しかも自分でポスターを貼った。セリヴァーノフは、計108点の「窓」を作成し、それぞれの部数は最大 3千に達した。 

「そして、このようになる」

 モスクワの編集局の一部のスタッフは、国家賞を受賞し、メダル「モスクワの防衛のために」(モスクワ防衛記念メダル)を授与された。

「その時は迫っている」
 ドイツのクラーケンは、冷酷で恐ろしい報復から逃れられない。至るところから攻撃の手がこの怪物を狙っている。
「ヒトラーはなぜ沈黙しているのか?」
 彼の沈黙は理解できる。前線の状況は悲惨だ。将軍たちの反乱がドイツで起きている。彼の「友人たち」は突然目覚めた。我々の当面の仕事は、ヒトラーの沈黙を墓場の沈黙に変えることだ。

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