ロシアでは1月17日から2月4日までが「記憶週間」となっている。1月27日の「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」に合わせた一連の追悼・教育イベントが行われる。
この日我々はイスラエルから「諸国民の中の正義の人」の称号を贈られた人々にも思いを馳せる。これは第二次世界大戦中にヨーロッパのナチス占領地でユダヤ人を救った非ユダヤ人に贈られる称号だ。ロシアでは215人が「諸国民の中の正義の人」の称号を贈られた。そのうち5人を紹介しよう。
ペラゲーヤ・グリゴリエワ
所蔵写真エフィム・トルビンは1938年5月12日にレニングラードで生まれた。4歳の夏休みに母にプスコフ州のココノゴヴォ村に送られ、母の知り合いのペラゲーヤ・グリゴリエワのもとで過ごすことになった。独ソ戦が始まると、両親は息子を迎えに来ることができず、エフィムは村に残された。占領が始まると、ペラゲーヤは少年に自分を母と呼ぶように言った。ユダヤ人であることを隠すためだ。
エフィムとペラゲーヤは、パルチザンになった彼女の兄エゴールの家で暮らした。エゴールの妻と子供も同居していた。家にはパルチザンの痕跡を探すためにしばしばドイツ兵がやって来た。家族全員が、少年が危険をもたらし得ることを理解していたが、誰も彼がユダヤ人であることを明かさなかった。エフィム自身は3年の間に自分の救済者に懐き、ペラゲーヤを実の母親と考えるようになった。毎日彼女は大切な存在となった少年を救うために自分の命を危険に晒し、彼の病気を治したり、しばしば最後の一切れのパンを与えたりした。
1945年3月、両親は息子を見つけたが、彼は親のことが分からず、レニングラードに帰ることを拒んだ。エフィム・トルビンはペラゲーヤ・グリゴリエワを実の母親だと思っており、彼女が一緒に来るという条件でのみ帰っても良いと言った。
第二の母はトルビン家で14年以上暮らし、完全に家族の一員となった。しかし望郷の念からココノゴヴォの村に戻ることになった。以来エフィム・トルビンはペラゲーヤと連絡を取ろうと何度も手紙を送ったが、一度も彼女の声を聞くことも、返信を受け取ることもなかった。
2001年、ペラゲーヤ・グリゴリエワに「諸国民の中の正義の人」の称号が贈られた。
エカテリーナ・コロリコワ
所蔵写真戦争が始まる直前、エカテリーナ・コロリコワはノヴゴロド近郊(現在は市内)にあったコルモヴォという町の精神病院で働いていた。占領の際、病院は負傷兵と非戦闘員の治療を行う場所となった。ある日エカテリーナは脚を負傷した少女フリダ・ラビノヴィチと出会った。少女はかつての同僚の娘だった。少女の母親はナチスの要求で他のユダヤ人とともに町から強制退去させられていた。
病院の職員はフリダがユダヤ人であることを知っていたが、皆彼女の治療を行い、ファシストの「司法」の目から子供を隠した。エカテリーナ・コロリコワは少女を自宅に住まわせ、彼女の第二の母となった。家宅捜索の際には子供を隠し、新たな名前の記載された身分証を得るためフリダに洗礼を行うことを決めた。フリダはリューバ・コロリコワとなった。
1943年末、病院職員はリトアニアに移されることになり、エカテリーナ・コロリコワの家族も移動を余儀なくされた。なおエカテリーナの息子は1941年8月にナチスの兵士によって銃殺されており、娘はドイツの強制労働収容所に送られていた。
終戦後、少女の実の伯父が彼女を見つけ、レニングラードに連れ帰った。離れ離れになった後も、フリダは第二の母が亡くなるまで交流を続けた。
1999年、エカテリーナ・コロリコワは「諸国民の中の正義の人」の称号を贈られた。
独ソ戦前、タマーラ・アルテミエワはレニングラードで暮らし、3歳のユダヤ人の少年マルク・フェリドマンの乳母をしていた。1941年夏、フェリドマンの家族(祖母とマルク)はタマーラとともに彼女の家族の暮らすザグロモチエ村(プスコフ州)に休暇に行った。
6月22日には彼らは村にいたが、少年の祖母は街へ帰らなければならなかった。彼女は孫を安全な村に残すことにした。戦時中は子供にとって村が最も安全な場所だと考えたからだ。しかしナチスの手はこの村にも及んだ。
村の住人はマルクがユダヤ人であることを知っていたため、占領軍が侵攻してくるとアルテミエワの家族は誰かが密告するのではと恐れた。しかし誰も子供の正体を明かさなかった。戦争中タマーラ・アルテミエワの身にはたくさんの不幸が起こった。父親が心臓発作で亡くなり、家が焼け、転居を余儀なくされた。1944年春、マルクは母と祖母のもとへと帰っていった。
1995年、タマーラ・アルテミエワおよびその両親ワシリーとポリーナに「諸国民の中の正義の人」の称号が贈られた。
ヴェーラ・ブリャチョーク
所蔵写真ヴェーラ・ブリャチョークは一人で(親族はシベリアに追放され、夫と息子に先立たれていた)チマショフスキー地区のネザイマノフスキー村で暮らしていた。
この地区は1942年8月にナチスに占領された。ある時ヴェーラは両親とはぐれてレニングラードから疎開してきた5歳のユダヤ人少年のことを聞いた。ゲーナ(本名はゲンリフ)はしばらくヴェーラ・ブリャチョークの隣人のもとで暮らしたが、新しい家族は然るべき面倒を見ず、少年は連日街路をさまよい、人に食べ物をもらっていた。ヴェーラは危険を承知でゲーナを引き取ることにした。二人の間には固い絆が生まれ、ヴェーラにとって少年は死んだ息子の代わりに、ゲーナにとって女性は消えた母親の代わりになった。
地区が解放されると、ヴェーラは少年を養子にしたいと当局に申し出た。彼の両親が死んだものと考えていたからだ。しかし1943年、長年の捜索の後、ゲーナの姉が村にやって来た。少年に対する思いは強く、孤独も辛かったが、ヴェーラ・ブリャチョークは彼を手放すことにした。息子と生き別れて同じく辛い思いをしたであろう実の母親が彼を待っていることを理解していたからだ。
ゲーナは親元に帰ったが、毎年夏になると家族全員で救済者のもとを訪れ、彼女の家事を手伝った。
1997年、ヴェーラ・ブリャチョークに「諸国民の中の正義の人」の称号が贈られた。
イザベラ・ドゥーディナ
yadvashemrussian独ソ戦開始の時点でイザベラ・ドゥーディナはレニングラードに住んでいたが、後にクルスクの父のもとに送られた。その直後、街にナチスが侵攻した。
1941年、ドゥーディン家に姪を助けてほしいという女性がやって来た。誰もかくまってくれないのだという。イザベラの父ニコライと継母リュボーフィは、ユダヤ人をかくまえば非常に危険だったにもかかわらず、幼いインナを預かることに同意した。戦時中ナチスは大人だけでなく子供のユダヤ人も狙っており、彼らは隠れる必要があった。翌日にはインナに洗礼を行うことが決まった。ナチスに疑われない新しい名を得るためだ。こうして少女はニーナ・ラーリナとなり、彼女はイザベラの義理の妹になった。
隣人は密かにユダヤ人の子供をかくまうこの家族を快く思わなかったが、密告はなぜかドイツ兵の注意を引かなかった。少女を助けただけでなく、イザベラの家族は兵士や将校が捕虜の状態から逃れて森に逃げる際に誘導し、彼らが密かに街で治療を受ける手助けをした。その中には何人かのユダヤ人もいた。
戦時中インナは何度か警察に連行されたが、姉も彼女に付き添った。イザベラが根気強く特訓したおかげで、妹は訛りなく話せるようになり、取り調べの際も堂々としていた。
第二次世界大戦後、街にインナの父がやって来た。彼女の墓を見つけるためだ。娘が生きており、彼女のことを愛してくれているニコライ・ドゥーディンの家族にいることを知り、彼は非常に喜んだ。
1997年、ドゥーディン家の3人、ニコライとリュボーフィ、イザベラに「諸国民の中の正義の人」の称号が贈られた。
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