「人民の敵」の子供たちの運命:スターリンの粛清は児童にも及んだ

State Archive of the Russian Federation; Dmitry Vyshemirsky archive/
 スターリンの粛清が荒れ狂った、ソ連の1930年代には、粛清、弾圧された人の子供たちも、いわば「村八分」にされ、孤児院に入れられるケースが多かった。強制収容所で生まれた者たちは、社会における権利をまったく持っていなかった。そうした人々のなかには、いまだに正義の回復を目指している者がいる。

 「彼らは、私の母を車に乗せ、監獄『十字架』(サンクトペテルブルクの有名な刑務所)で降ろし、私たち子供は、一時的な児童収容施設に連れて行った。私は12歳で、弟は8歳だった。まず、私たちは頭を丸刈りにされ、首には番号の記された板切れをぶら下げられ、指紋を取られた。弟は泣き叫んだ。でも、私たちはお互いに引き離され、会って話をすることは許されていなかった」

 レニングラード(現サンクトペテルブルク)出身のリュドミラ・ペトロワは、1938年のこの恐るべき光景を、グラーグ(強制収容所)歴史博物館の職員との会話のなかで振り返る。彼女とその弟は、粛清された両親の子供だというだけで、罪ある者とされた。 

 

「人民の敵」の子供たち

カルゴポリ収容所の「孤児院」

 1937年、大粛清の組織者の一人で、ソ連の秘密警察「内務人民委員部」(NKVD)を率いていたニコライ・エジョフは、悪名高い法令に署名した。「祖国の裏切り者の妻子に対する抑圧措置について」がそれだ。

 「祖国の裏切り者」の妻たちは逮捕されて、5~8年間の強制収容所送りとなった。1~1.5歳から15歳の子供は、孤児院に送られた。グラーグ歴史博物館によると、エジョフの命令により、逮捕された「裏切り者」の妻たち1万8千人が、刑務所や収容所に送られ、2万5千人以上の子供が、孤児院に入れられた。

 このような試練を嘗めた人々は、その回想によれば、すでに過密状態にあった孤児院で、劣悪な食事を与えられていた。そのため彼らは、ゴミ捨て場で食べ物をあさらざるを得なかった。多くの者が病気で死にかけていたが、孤児院の職員は子供たちに、盛んに体罰を加えた。

 孤児院職員は、粛清された者たちの子供を注意深く監視し、「反ソ活動やテロにつながる感情や行動を直ちに明らかにし、阻止する」ように指示されていた。

 ソ連社会では、被粛清者たちの子供と家族に、心理的な圧力が加えられていた。昨日までの友人が――大人も子供も――彼らから背を向けた。高官の子供でさえ、突然、村八分にされ、豪華マンションから孤児院に移されることもあった。

ミラ・ウボレヴィッチ

 処刑された軍司令官イエロニム・ウボレヴィッチの娘、ミラは振り返る。「私たちは苛立ち、憤慨し、自分たちを犯罪者のように感じた」

 これらの子供たちは、親戚のもとに返される可能性もあったが、そのためには、官僚主義の厚い壁を突破しなければならなかった。だから、後見人になる手続きが時間的に間に合わなかった人も多かった。また、被粛清者の子供を引きとるのをただ恐れた者もいた。そうすることで、自分と家族に、当局の目を向け、疑惑を持たれるのではと懸念したのだ。

 

「社会的に危険な」子供たち

イオナ・ヤキールと息子のピョートル

 被粛清者の子供たちのなかには、さらに、「社会的に危険な子供たち」というカテゴリーもあった。彼らは、法令により、強制収容所、労働矯正施設、または「特別秩序」の孤児院に入れられねばならなかった。

 この法令のせいで、軍司令官イオナ・ヤキールの息子で、当時14歳のピョートルは、処刑された父を犯罪者とみなすことを拒否して地方に追放された後、でっち上げの罪で5年の刑を宣告された。その結果、彼は収容所で17年間も過ごし、ようやく31歳のときに釈放された。

 「人々の話から私は理解した。アストラハン(*ロシア南部の都市)で起きていることは国中で起きている。つまり、いたるところで無実の人が逮捕され、殴打され、尋問で苛まれていることを」。ピョートル・ヤキールは後年、自分の体験のすべてを、自著『刑務所での幼年時代』に描いている。

 収容所に送られた「ガキ」は、いじめられ、殴打され、しばしば大人の犯罪者と同じ部屋に入れられた。彼らは、ごく若い頃から、独自のサバイバル術を身につけることを強いられた。こうして、彼らの生活は破壊された。

 作家アレクサンドル・ソルジェニーツィンは、『収容所群島』でこう書いている。世界と善悪について、これらの子供が抱く考えは歪んでおり、それが「収容所で最も有利な行動形態」であるために、「厚顔無恥な行動」をとっている、と。

 「被粛清者の何万人もの子供たちが、収容所暮らしをしたが、そのほとんどは通常の生活に戻ることができず、『闇の世界』つまり犯罪界に入っていった」。グラーグ歴史博物館の研究者、タチアナ・ポリャンスカヤは、論文「『社会的に危険な子供たち』:『祖国の裏切り者』の家族に対するテロル」に記している。

 

収容所で生まれた子供たち

「人民の敵」の子供たち

 収容所で生まれた子供たちはほとんど、すぐに母親から引き離された。多くの労働矯正施設には、特別なバラック(「孤児院」と呼ばれた)があった。収容所で生まれた子供も、有罪判決を受けた母親といっしょに来た子供も、ここに収容された(1.5歳未満の子供は、連れて行くことが許可された)。

 これらの子供たちが生き残れるかどうかは、収容所周辺の気候と刑期の長さによった。また時には何よりも、収容所の看守・職員、そして「孤児院」の「先生」と看護師の、子供たちへの対応次第だった。

カルゴポリ収容所の孤児院

 「孤児院のスタッフが十分な育児を行わなかったことは、疫病の頻繁な流行と高い死亡率につながった。それは、年により異なるが、10~50%に達した」。ポリャンスカヤはこう書いている。 

 グラーグ歴史博物館は、プロジェクト「私のグラーグ」の一環として、当時子供だった者を含む、元囚人の証言を集めている。

ワレンチナ・ジューコワ

 ワレンチナ・ジューコワは、1946年に収容所で生まれたと言う。彼女の母親は、収容所長に妊娠させられた。1951年、ワレンチナは、収容所から孤児院に連れ去られた。その1年後に母親は釈放されたが、ワレンチナを孤児院から引き取ったのは父親だった。母親に再会したのはようやく2015年のことだ。

ゲオルギー・カレトニコフ

 ゲオルギー・カレトニコフは、人生最初の8年間を収容所の「孤児院」で過ごしたと語る。彼は1938年に、「祖国の裏切り者」の妻たちが収容されるアクモリンスキー収容所(略称ALZHIR)で生まれた。母親が逮捕されたとき、彼女はまだ自分が妊娠していることを知らなかったと、彼は推測している。彼女が出産すると、ゲオルギーはすぐさま連れ去られた。母子が再会したのは、1946年に彼女が釈放された、その日だ。父親のほうは、息子への親権を棄てている。ゲオルギーが成人してから二人は会ったが、親密にはならなかった。

 両親から引き離された子供たちの多くは、再会したときにあまり嬉しさは感じなかった、と振り返っている。彼らにとって、「母親」という言葉は保母に対するものであり、本物の母親に会ったとき、我を忘れて抱きついたりはしなかった。出会いはしばしば冷淡で、どうふるまっていいか、双方ともに分からなかった。まともな関係は築けなかった…。

 

今日、「収容所の子供」はいかに正義のために戦っているか

 釈放後、収容所の元囚人は、大都市に住む権利がなかった。住めたのは、大都市から100キロ以上離れた場所だった。元囚人は、就職も難しく、ごく質素な部屋や寮の片隅を借りることが多かった。

 多くの者は、自宅に戻るお金さえなかったので、服役場所の最寄りの街に住み続けた。

リディア・チュリンスキエネ

  たとえば、ヤロスラヴリ州で一生過ごしてきたリディア・チュリンスキエネは、成人してから初めて知ったのだが、彼女は実はレニングラード生まれで、幼児の頃に母親といっしょに収容所送りになったのだった。そのとき彼女は、すぐに孤児院に連れて行かれた。しかし彼女は、自分が収容所にいたことを夫にも子供にも話さなかった。当然だが、職場に知れることも嫌だった。

 仮に元囚人が自分のアパートにたどり着けても、既に没収されていて、他人が住んでいることが多かった。

 1991年に、「政治的弾圧の犠牲者の名誉回復に関する」法律が採択され、それによれば、被粛清者、被弾圧者の子供たちも、犠牲者として認められている。また彼らは、逮捕前に彼ら、または彼らの両親が住んでいた地域に戻る権利を有すると認められた。その後、法律には規定が追加され、収容所、拘留場所で生まれた子供たちも、逮捕前に両親が住んでいた都市に住居を申請できることとなった。

 しかし、いわゆる「官僚の壁」を考えると、「住宅を取り戻す」手続きは非常に複雑だと言わざるを得ない。名誉回復の証明書その他、多数の書類を集めなければならない。その後で、新たな居住地に登録するのだが、ロシアの各構成主体(共和国、州などの自治体)には、無料の住宅提供に関するそれぞれ独自の法律、手順があり、しかも順番待ちしなければいけない。そのため、手続きは長引く可能性があり、場合によっては数十年もかかりかねない。

 たとえば、収容所で生まれた3姉妹、アリサ・メイスネル、エリザヴェータ・ミハイロワ、エヴゲニア・シャシェワは、モスクワに住む権利を得るために長年悪戦苦闘してきた。彼女たちはもう70歳を超えており、正義を回復すべく、ウラジーミル州からモスクワまで、片道数時間かけて行ったり来たりしなければならない。

 人権活動家や法務専門家が、彼らの問題に取り組んでおり、粛清、弾圧の犠牲者ができるだけ早く補償を受ける権利を得られるように尽力している。つまり、各自治体ではなく、連邦予算から補償を得ようとしていて、これは、身体障害者、第二次世界大戦の退役軍人、チェルノブイリ原子力発電所事故の犠牲者と同様の形になる。しかし、この件はまだ良い結果が出ていない。

 

*ロシア・ビヨンドは、この記事の執筆にご協力いただいた、グラーグ歴史博物館および人権団体「メモリアル」に感謝する。

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