ロシアの国家権力はどんなタイプか

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 ロシアの国家権力はどんなタイプに属するのか?この疑問に答えるためには、ロシアで政権のタイプがいかに進化してきたかを振り返らなければならない。ロシア式の国家統治法はどのようなものだったか?その変遷を跡付けてみよう。

クニャージとドルジーナ 

 クニャージ(公)は、ロシアにおける支配者の最初のタイプだった。モンゴル帝国による侵攻のはるか前、現在のロシアの領域は、その一部は地元の君主によって支配されていた。社会おけるこれらの支配者の主な機能は、侵略者や征服者から、そして地元の悪党から人々を守ることだった。クニャージは、ドルジーナ(親兵)に助けられていた。これは、クニャージのために戦った親兵だ。住民は、クニャージに保護される引き換えに、彼に毎年貢納した。

 ただし、公たちは地元民の行動には実質的な影響は及ぼさなかった。

「タタールのくびき」の影響

 モンゴル帝国がロシアの地を略奪し奴隷化すると(いわゆる「タタールのくびき」である)、ロシアの公の地位とその権能は、いちいちタタールに承認してもらわねばならないことになった。ロシア各地の「正式の」公になるためには、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)に赴いて、豪華な贈り物をする必要があった。そして、「ヤルルイク」と呼ばれる、公として承認する文書を「獲得」する。高貴な血筋の大物の公たちも、ハンの首都で屈辱を強いられ、しばしばハンの玉座に、跪いて進み出ねばならなかった。

 ジョチ・ウルスは、ロシアの政治システムの揺籃期に影響を与えた。ハンの冷酷かつ狡猾なやり方は、ロシア草創期の公たちによって借用され、封建時代の政争で用いられた。

 ロシアの地は、「タタールのくびき」に対抗するために団結せねばならず、その過程で徐々にモスクワ大公が最も強力になっていった。タタールと対決してロシアを統一したイワン大帝(3世)は、自ら「ツァーリ」と名乗った。これは、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)から借用した称号だ。今やツァーリは、ドルジーナの代わりに、大土地所有者で軍司令官であるボヤーリン(大貴族)に囲まれていた。彼らがツァーリの統治を支えた。 

ツァーリの時代

 ロシアで初めてツァーリとして即位したイワン雷帝(4世)は、自分の支配する広大な領土が非常に多様であり、それぞれの地域が異なる目標と希望を持っていることを理解していた。1549年頃、イワンは、「全国会議(ゼムスキー・ソボル)」を招集した。これは、最も影響力のある人々(貴族、商人、聖職者、および軍司令官)の集まりで、一種の封建的身分制議会だ。彼ら代表は、ロシアの様々な地域から、地元の人々によってモスクワに送られてきた。

 ロシアの歴史家たちは、これは、選挙にはよらないがそれでも「選出された」、ロシア式の間接民主主義の形態だと主張している。 

 1549年~1684年に、約60回の全国会議が開かれた。代表は、国の最重要問題を決定するために不定期に集まった。ツァーリと大貴族は、自分が直接管理していない広大な領域については、実情がよく分からなかったので、中央からでは効果的に統治できなかった。

 17世紀の間に、ロシアの中心部と周辺部との間に通信、連絡が確立され、ロシアの士族(この時点では一種の下級貴族だった)が現れた。彼らは、一定の領地をもらうのと引き換えに、ツァーリと大貴族(ボヤーリン)に仕えた軍人だ。

 士族は農奴を所有することができ、その一部は戦時中には軍人として戦った。こうして、もはや全国会議を開く必要はなくなった。士族が国中で、ツァーリと大貴族の家来を務めたからだ。大貴族(ボヤーリン)は、士族を含めた貴族の中で、最高の位置を占めており、政治とツァーリに大きな影響を及ぼした。しかし、彼らはエリートであり、民衆の希望は表していなかった。

皇帝と貴族

 本格的なヨーロッパ・スタイルの政府がロシアに登場するには、ピョートル1世(大帝)の治世をまたねばならなかった。彼は、あまりにも多くの権力を握っていた大貴族(ボヤーリン)を排除した。

 今や、最高の主権者であるツァーリと、彼の下僕にすぎない、その他大勢がいるという形になった。ピョートルはすべての貴族に対し、軍人または文官として国家に勤務することを義務付けた。また、ヨーロッパ的な法制度、コレギア(省に相当)をもつ行政機構、元老院を設置し、ロシア正教会も、国の管理下に置いた。

 物理的にまた財政的に、従来の最も強力なエリートを根絶したうえ、ピョートルは、広い領地を与えることで新たなエリートを導入し、この階層を世襲制とした。権力バランスは、ロシア帝国200年の歴史の大半において、次のように組織されていた。

 まず、貴族は農奴に依存していた。農奴は食料や物資を生産した。国家は貴族に依存していた。貴族は軍人として戦い、ビジネスを組織、運営し、技術を開発した。しかし、この不安定な権力バランスは、ロシアで農奴制が廃止されたときに崩れてしまった。

ソ連時代へ

 ロシアの農奴は、自由を得るために重い代償を払った。彼らは自分が使用していた土地を国から買い取らなければならなかった。これにより、人口の大部分がさらに深刻な状態に陥った。一方、貴族は主な収入源を奪われたため、急速に衰退していった。

 1917年10月のロシア革命(ボリシェヴィキ革命)は、古い秩序に終止符を打った。しかし、ソ連のシステムは主に、帝政時代のシステムを踏襲していた。ソビエト国家は、独自の「貴族」、つまり共産党を組織した。共産党は国と、そのあらゆるレベルで統合された。党幹部は、形式的には住民によって選出された。だが実際には、党幹部はすべて、指導者とその「ボヤーリン」である政治局により任命された。

 もっとも、帝政ロシアでは、貴族は世襲制だったが、ソ連の「貴族」は、党から追放することで瞬く間につぶすことができた。地元の指導者として「上から」任命されたソ連の役人は、住民の希望を表してはいなかった。彼らは、時には自分の必要に従って行動して、住民の希望に反することがあった。

 ソ連の「貴族」は世襲制ではなかったため、一部の腐敗した役人は、個人的な蓄財のために、横領と贈収賄に走った。こういうシステムは失敗する運命にあった。 

ロシア連邦

 1991年以降、ロシア連邦は、「半大統領制」の大統領共和国になった。これはつまり、人々が議会(ロシア連邦議会)と行政(大統領。彼が首相が組織した政府を承認する)という、二つの権力を選出し、それにより自らの希望を表明するということだ。法律を可決するには、連邦議会と大統領の双方がそれを承認しなければならない。

 各権力はお互いに制御し合っている。すべての法律を制定する議会は、政府への不信任案を可決して、改善、改革を要求できる。一方、大統領は、連邦議会の下院(国家会議)をいつでも解散できる。他方、連邦会議(上院)は、大統領に対する弾劾決議を可決できる。

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