赤色テロの犠牲者の数は?:100年前にボリシェヴィキ政権が開始

「ペトログラードのチェーカー(秘密警察)の地階にて(1918年)」。イワン・ウラジーミロフ作。

「ペトログラードのチェーカー(秘密警察)の地階にて(1918年)」。イワン・ウラジーミロフ作。

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 1917年のロシア革命後、レーニンが樹立したボリシェヴィキ政権の赤軍と、これに対立する白軍は、凄惨な内戦を繰り広げた。今からちょうど100年前、ボリシェヴィキ政権は、戦いに勝つために「赤色テロ」を始めた。

1.赤色テロとは何か?

モイセイ・ウリツキーの墓のそばにいる管理人たち。ペトログラード。ポスターには「ブルジョワおよびその支援者を殺せ!赤色テロ、万歳!」と書いてある。

 ロシアでは、「赤色テロ」は、ボリシェヴィキ政権による弾圧を指す。そのターゲットは、政敵および「敵の階級」だ。1918年9月5日、ボリシェヴィキの発意で採択された特別決議で、正式に宣言された。「反ソビエト、反革命の団体、陰謀、暴動と関係がある者はすべて銃殺されなければならない」。決議ではこう規定されていた。

 この決議は、2カ月後には正式に廃止されたが、通常、「赤色テロ」という言葉は、内戦中にソビエト政権が行ったあらゆる弾圧を指して使われる。つまり、1917年10月にボリシェヴィキが臨時政府を転覆させてから、1922年に外国の干渉軍を含めたあらゆる内外の敵に勝利するまでの期間だ。

2.赤色テロが行われた理由は?

ピョートル・ベロウソフ (1912-1989)。「ウラジーミル・レーニンの暗殺の試み」。V・I・レーニン中央博物館、レニングラード支部。

 しばしば強調されることだが、ボリシェヴィキは、政権を奪取した直後には、厳しい弾圧は行わなかった。彼らは対立勢力を釈放した(もっとも、それはすぐに不俱戴天の仇となったが)。陰謀に関与した人々に対しても、比較的軽い処罰で済ませた。だが闘争が激化すると、すべてが変わった。

 8月30日、ボリシェヴィキの指導者、ウラジーミル・レーニンに対する暗殺未遂事件が起きた直後に、赤色テロが宣言される。レーニンがモスクワの工場の労働者たちに演説した際に、3発の銃弾が発射され、うち1発が彼に重傷を負わせた。

 この事件に続いて、ソビエト政権の高官に対し、一連の暗殺および未遂事件が発生した。内戦が激化した1918年7月だけでも、4110人のソビエト政権の当局者が殺害された。こうした事態を受け、ボリシェヴィキは、赤色テロを敵の攻撃に対する正当防衛と考えるようになる。

3.それはいかに始まったか?

イワン・シチェグロヴィトフ

 レーニン暗殺未遂と同じ8月30日、ペトログラードのチェーカー(秘密警察)議長のモイセイ・ウリツキーも暗殺されている。その直後、512人のブルジョワおよび上層階級の人々が、ペトログラードで銃殺刑に処せられた。彼らはボリシェヴィキにより拉致されて、人質になっていた(当時この政権は、こうした手法を広範に用いていた)。9月後半には、さらに多くの人々が殺された。

 モスクワでは、80人ほどが9月5日に公開処刑。このときに銃殺された者のなかには、帝政時代の内相2人のほか、最後の国家評議会議長イワン・シチェグロヴィトフもいた。

 「ここにツァーリの大臣どもがいる。こいつらは一生の間ずっと、労働者と農民の血を流してきた」。銃殺を行った兵士たちは、執行前に彼らを指してこう叫んだ。

 複数の歴史家の見解を総合すれば、この年の秋に1600~8000人が全国で殺害されている

4.すべてのボリシェヴィキが赤色テロを支持したか?

「将軍たちの逮捕」。イワン・ウラジーミロフ作。

 ボリシェヴィキの指導者のすべてが、こうした大規模なテロを行うことで一致していたわけではない。すでに10月に、内務人民委員(内務大臣)を含む多くのボリシェヴィキ幹部が、弾圧政策を止めるよう求めた。そこで、11月6日に赤色テロは、公式的には終わり、恩赦が宣言された。

 しかし、暴動、暴力の波は、内戦の激化とともに強まるだけだったので、ボリシェヴィキの指導者の多くが赤色テロの行使を提唱した。

 「無益な階級は撲滅しなければならない。 …被告が反ソ的言動をなしたという証拠を探す必要はない。第一の問題は、その人物がどの階級に属するのか、出自、教育、職業はどうであるか?これが被告の運命を決める。これこそが赤色テロの意味であり、本質である(ロシア語)」。チェーカーの有力幹部の一人、マルティン・ラツィスはこう言い放った。

 ラツィスの発言についてレーニン自身は、「ナンセンス」と言った。そして、必要な仕事は、ブルジョアジーを物理的に根絶することではなく、そのような階級を創出した社会的条件をなくすことであると、レーニンは付け加えた。

5.赤色テロの犠牲者数は?

イェウパトーリヤにおける1918年冬の赤色テロの時に殺された犠牲者の死体。ボルシェヴィキが死体を黒海に投げ捨てたが、潮と波で1918年の夏の日に海岸に戻された。

 数字は歴史家によって大きく食い違っている。歴史家セルゲイ・ヴォルコフは、1917〜1922年にボリシェヴィキが最大で200万人を殺害したと主張している。その一方で、弾圧政策を担っていた機関のアーカイブを調べた歴史家は、この時期に組織的テロにより約5万人が命を奪われたとする。また、そういう専門家のなかには、ソビエト政権に対する農民反乱の犠牲者を含めて、この数字を倍増させたがる者もいる。

 そうなると、10万人死亡ということになり、強い印象を与えるけれども、内戦全体の犠牲者からみれば氷山の一角にすぎない。それは1000万人~1200万人と推定されている。

6.白色テロはあったのか?

白色テロの犠牲者。白軍に囚われたソ連の国民たちがヴォルジスカヤ小艦隊の水兵によって助けられ、船に乗せられた。1918年10月。

 白色テロすなわち、反ボリシェヴィキ勢力の側からテロが行われているというのが、公式的には、ボリシェヴィキの弾圧政策の主な理由の一つであった。それは、反ボリシェヴィキ闘争の規模が劇的に拡大した1918年半ばから勢いを増し始めた。

 しかし、白色テロの犠牲者数は、いまだに不明だ。その数の推測がずっと難しくなるからである。というのは、ボリシェヴィキ政権、赤軍と異なり、彼らと戦った白軍には、単一の国家機構がなかったからだ。

 白軍は、ボリシェヴィキ政権のように、公式にテロを宣言することもなかった。だからこそ、白軍の各勢力の独裁政権は、それほど注目を集めず、人を引き寄せなかった。

 にもかかわらず、多くの歴史家によれば、白軍は、内戦で旗色が悪くなると、共産主義の敵と同等に、時にはそれ以上に弾圧に頼った。

 最近のある研究で主張されているところでは、白軍により50万人以上が犠牲になったという。もっとも通常は、研究者の見積もりはこれよりやや控えめだが。

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