「私は、バレエ以外のことをしたいとも思っていませんでした」:エカテリンブルグ・オペラ劇場のバレエ・ダンサーの西口実希さんにインタビュー

カルチャー
アンナ・ガライダ
 最近、ロシアバレエに新たな名が登場した――西口実希だ。5年前、ペテルブルグのロシア国立ワガノワバレエアカデミーを卒業後、エカテリンブルグ・オペラ劇場のバレエ団に採用された。

 現在、ウラル・バレエと呼ばれているこの劇場は、昨今のロシアバレエ発展の中心地となっている。この日本人女性ダンサーは、芸術監督ヴァチェスラフ・サモドゥーロフの海外公演の初演から、ハンス・ファン・マーネンやソル・レオンとポール・ライトフットのロシア初演まで、この劇場の大きなプロジェクトすべてに参加している。マリウス・プティパ生誕200年記念に捧げられたバレエ『パキータ』の一風変わった三幕のバリエーションの初演を踊ったばかりだが、少し前には、『雪の女王』のゲルダ役で、国家演劇賞「ゴールデン・マスク」にノミネートされた。
 ロシア・ビヨンドの記者が、どのようにしてエカテリンブルグに来ることになったのか、なぜロシアでバレエを学ぶほうが良いのかを、西口実希さんにインタビューした。

 日本ほどバレエが愛されている国は世界のどこにもありません。日本の人たちの生活において、バレエはどんな位置を占めていると感じていますか?

 日本では多くの子どもがバレエをやっていますが、大人が仕事をできるような劇場はほとんどありません。バレエにはかなりのお金がかかりますし、国家からの支援もありません。習うにはかなりお金がかかりますし、専門のバレエ学校やアカデミーもありません、小さな個人経営のスタジオがあるだけです。バレエを好きな人は、自分で払わなければいけないんです。それも高価です。

 踊りを始めたときのことを覚えていますか?

 私は、体を動かすのが大好きでした、外を走ったり跳んだり。テレビでは、いろいろな劇場の公演を見ていました。どれも好きでした。我が家は大阪の隣の小さな町に住んでいました。そこには小さなバレエスタジオがたくさんありました。私は、おそらく、3歳だったと思います。友達と一緒にあるスタジオに通い始めました。レッスンは私には楽しかったですが、友達は好きになれなかったようです。彼女はやめてしまいましたが、私は残りました。

 あなたが通い始めたスタジオは、クラシックバレエが専門だったのですか、それとも、いろいろなダンスを教えていたのでしょうか?

 私が習っていた頃、日本にはそもそもクラシックしかありませんでした。今は少しずつ、モダンバレエやコンテンポラリーダンスも出てきています。でも、スタジオは小さなもので、教え方も、ロシアやイギリスやフランスのように体系だったものではありません。私は運が良かったんです、私の先生は、ご自身もかつてロシアに少し留学したことがあったんです、だから、私はペテルブルグに行ったとき、一から学び直す必要はありませんでした。先生は、私に非常に大きな注意を払ってくれました。それに、私がまだ小さいうちにしつけてくれたのです、「私は注意してやることしかできないのよ、あなた次第、あなたが修正するかどうかなの。明日は昨日よりもうまくやりなさい」と。これが習慣になりました、今でも先生は私のことをすごく助けてくれています。先生や振付師が注意をしてくれたら、次の稽古までに修正するようにしています。

 どのような思いでプロになったのですか?

 日本では、12、13歳で学校を終えて、将来何をしたいのか、どんな学校に進むのかを決めなければいけません。私は、バレエ以外に何も知りませんでしたし、他のことをしたいとも思っていませんでした。でも、日本ではバレエを職業にする可能性はほとんどないことも分かっていました。バレエ雑誌やテレビで、卒業後に劇場で仕事を得ることのできるロシアのバレエのことを見たことがありました。そこに行かなきゃと決心したんです。先生が私を支持してくれました、彼女も、もっと学ぶためには、私は日本を出るべきだと思っていたんです。それで、毎年夏に、海外から日本にやってくる先生たちのマスタークラスで習い始めました。

 最終的にはどうやってワガノワバレエアカデミーへ来ることになったのですか?

 まだ12歳くらいの頃、ワガノワへ通う二人の少女が出演したドキュメンタリー映画を見たんです。ショックでした。彼女たちは私と同い年なのに、全然レベルが違いました。このアカデミーに行きたいという夢が私に生まれたんです。17歳の時に、ペテルブルグから来てくれた先生たちが試演を行ってくれて、受け入れてもらったんです。

 ペテルブルグでいちばん大変だったことは何ですか?

 ワガノワ学校ではこう考えられています、もしもピルエットを3回できないのなら、2回やりなさい、ただし、きれいに、汚いところは見せてはいけないと。ロシアの学校では、ポジションというのは、両足だけでなく、頭も入るとみなされています。私の日本の先生も同じアプローチでした、だから私はパニックにはなりませんでした。私の同級生は、彼女は日本で学んだイギリス人ですが、大変でした。

 どうしてエカテリンブルグに来ることになったのですか?

 この劇場に招かれるまで、私は、こんな町のことは聞いたこともありませんでした。留学に来て二年目に入った時に、私たちの先生のヴェロニカ・アレクサンドロヴナ・イヴァノヴァが、私たちの就職先を見つけなきゃいけないと、準備を始めさせたのです。ペテルブルグには、私に向いたものはありませんでした、なぜかというと、私は背が低すぎて、ペテルブルグで仕事を見つけるのは難しいのです。私と先生は、ヨーロッパにたくさん問い合わせをしましたが、向こうまで試演に行かなければならず、それにはまたお金が必要でした。エカチェリンブルグは、ヴィデオを見るとすぐに私を招いてくれたのです。

 エカテリンブルグがどんな印象を与えたか覚えていますか?

 エカテリンブルグに来たのは6月で、町じゅうが緑に覆われていました。ペテルブルグよりも人は少なかった。小さな町だなと思いましたが、ちがいました。ここへ来る途中、私はとても怖かったのです、タクシーを見つけられるのか、劇場までたどり着けるのかと。私はまだロシア語が下手だったんです。でも、劇場が私を迎えに空港に車を寄こしてくれていました、すぐに寮に連れていってもらい、いろいろ見せてもらいました。隣の部屋の女の子が、私を劇場のクラスに連れていってくれました。そこで誰かがこう言ったんです。「あなたを見てあげるから、センターに立ってよ」と。ここの人たちはとてもいい人ばかりでした。ワガノワの先生たちからこう忠告されていました、劇場では誰も私たちのことを注意して見てはいない、自分で自分を注意深く見ていなければいけない、すべてはあなた次第だ」と。

 プリマになるという目的を持っていますか?

 そのことはすぐには考えていませんでした。でも、まあ、なりたかったです、もちろん。最近、長いこと夢に見ていたジゼルを踊りました。『ラ・フィユ・マル・ガルデ』のリーザは特に好きです。ヴァチェスラフ・サモドゥーロフの上演するバレエは覚えるのがすごく難しいんです。でも、『雪の女王』の稽古では、私は初っ端からすごく忙しんですが、振付師との準備がすべて終わる頃には、踊るのがかなり楽になっていました。とても大変だったのは、『パキータ』の初演の準備です。これは、第一場は古風なバレエで、第二場は、無声映画のワンシーンのように演出されていて、第三場は、最初は現代の劇場のビュッフェが舞台になっているんですが、最後はすべてが古典的なグラン・パで終わるんです。私にとっていちばん難しかったのは、自分にまったく似ていない悲運の女性を演じなければならない第二幕でした。今は、ジュリエットの役をやれたらいいなぁと思っています。

 今の立場になってから日本で踊ったことがありますか?

 残念ながらありません。自分の国の人たちの前で踊りたいという気持ちはすごくあります。両親でさえ、私の舞台を一度しか見たことがないのです、私の劇場がバンコクのフェスティバルに出演したときです。でも、夏に帰省すると、私たちの町ではコンサートもないのです。いつか私たちの劇場が日本に客演に招かれればいいなと思っています…。