ステファニヤ・エルフティナ=
コンスタンチン・チャラボフ撮影/ロシア通信ステファニヤ・エルフティナ 19歳 セーリング
ステファニヤ・エルフティナ=コンスタンチン・チャラボフ撮影/ロシア通信
19歳のステファニヤ・エルフティナ選手はグアナバラ湾で行われた競技で勝利を決めた数時間後、インスタグラムに写真を投稿し、「この写真はノーコメントのままにしておいていいかしら」と英語で書き込んだ。
事実、言葉など要らない。リオ五輪の女子RS:X級(ウィンドサーフィン)で銅メダルに輝いた若きエルフティナ選手はロシアのセーリングスポーツ界の歴史を大きく変えた。セーリングでロシアがメダルを獲得するのは、実に1996年のアトランタ大会での初めてかつ唯一のメダル以来となる。それはエルフティナ選手が生まれる1年前のことだ。
「白いサメ」の異名を持つ明るい金髪のエルフティナ選手が初めてセーリングをしたのは6歳のとき。彼女の生まれ故郷、アゾフ海に面する港湾都市エイスク(モスクワから南へ1260 ㎞)では、ロシアの他の地域とは異なり、サーフィンは一般的なスポーツだ。しかしそんなエルフティナ選手、実はサーフィンのスターになっていないかった可能性もある。エルフティナ選手本人いわく子どものころは水泳、ダンス、スケッチ、絵画などありとあらゆることをやっていたという。ファッションショーに参加したこともあるのだそうだ。
エルフティナ選手の母親は数学者で、娘にも同じ道を歩んでほしいと願っていたという。というのも、エルフティナ選手は数学と物理に特化した学校に通っていたが、数えきれないほどの趣味を楽しみながらも学校での成績は優秀だったからだ。しかしエルフティナ選手は12歳のとき、サーフィンを選んだ。エルフティナ選手の母親はこう話す。「彼女の根気づよさには驚かされます。試合で負けてもそのたび落ち込むどころか、もうその瞬間に次の大会のことを考えているんですから」
エルフティナ選手が成年の部への参加1年目でオリンピックメダルを手にすることができたのは、彼女の気質によるところも大きい。明るく個性的な「白いサメ」はセーリングスポーツがまだまだ普及していないロシアで、多くの人々の模範となり得るだろう。
エヴゲーニー・リロフ= アレクサンドル・ヴィリフ撮影/ロシア通信
リオの水泳会場でユリヤ・エフィモワ選手と仲間たちとの複雑な関係をめぐる議論が交わされているとき陰に隠れた存在だった別の選手がエフィモワ選手に劣らぬスターとなった。それがリロフ選手だ。感情的なエフィモワ選手と違い、19歳のルィロフは冷静沈着そのものだ。
リロフ選手はマスコミからの取材に答えた際、「父はわたしに有り余るエネルギーをプールで発散して欲しかったようです」と語っている。しかしそのエネルギーは18歳にしてカザンで開かれた世界選手権で銅メダルを手にし、世界の上位選手に肩を並べるようになるほど大きなものだった。
リオ五輪ではわずか0.01秒の差で銀メダルには届かなかったものの、ヨーロッパ記録を塗り替えた。ルィロフ選手の記録を上回ったのは、金メダルのアメリカのライアン・マーフィー選手、オーストラリアのミッチ・ラーキン選手だけとなった。
普段はモスクワ警察に勤務するリロフ選手、「ライバルは知っている。十分競争できると思う」と自信を覗かせる。思慮深く目的意識が明確なリロフ選手、早かれ遅かれライバルたちを追い抜く可能性は十分にあるだろう。
ヤナ・エゴリアン=グリゴリー・スィソエフ撮影/ロシア通信
経験と冷静さが評価されるフェンシングの世界では、若手アスリートが大々的な勝利を収めることはきわめて稀だ。しかしヤナ・エゴリアン 選手はその例外となった。6歳のときに故郷アルメニアからモスクワに移り住んだ22歳のエゴリアン選手は、初めて出場したオリンピックのサーブル個人で、伝説の選手ソフィヤ・ヴェリーカヤを破って大勝利をつかんだ。試合を決めたのは最後のひと突きだった。エゴリアン選手は試合を振り返り、「ただただラッキーでした。14−14のマッチポイントでのほんの一瞬で勝負が決まっただけのこと」と謙遜する。一方で決勝戦については、自身が崇拝する人物でもあり、友人でもあるヴェリーカヤ選手を相手に戦うのは心理的に厳しかったと打ち明けた。
トレーナーのイリガル・マメドフ氏は彼女の成功の秘訣について、「エゴリアンは気合で試合運びをする選手。気合がさらなるパワーとエネルギーを与えているのです」と指摘する。
勝利を決めたその日、エゴリアン選手の感情を抑えきれない様子が世界のあらゆる通信社を通じて伝えられた。一方、その数日後、エゴリャン選手は女子サーブル団体で、今度は個人決勝で戦ったヴェリーカヤ選手とともに2つ目の金メダルを手にし、喜んだ。オリンピックで金メダルを手にするというエゴリアン選手の夢は、夢のままで終わっていたかもしれなかった。数年前、つらい練習に耐え切れず、フェンシングをやめようとしたことがあったのだという。しかし、そんなとき母親に弱虫と言われ、再びモチベーションが上がった。このときのことについてエゴリアン選手はインタビューの中で、「それはもうものすごく腹が立って。それで続ける決心をしたんです」と話す。恐らくこの後はずっと続けることになるだろう。フェンシングの競技人生は長く、これからまだまだ新たな勝利を収める時間は十分にある。
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