写真提供:Corbis/ Foto
2004年のアテネ・オリンピックの後、イシンバエワはエフゲニー・トロフィーモフ氏からビタリー・ペトロフ氏にコーチを替えた。これは青天のへきれきだった。トロフィーモフ氏は1997年末から彼女を指導し、アテネ五輪の金メダリストに育てあげた。まるで、気まぐれな娘が実の父親を見捨てるような出来事に見えた。
イシンバエワは変化を求めて、モナコに拠点を移した。そこは自由を享受する天国に思われた。
しかし、彼女は当時、ため息をつき、「時間がなくて観光どころではないの」と私に言った。言葉の端々から、親友も姉妹も両親もいない異国で寂しがっているのが分かった。ほとんどの時間を一人で過ごしていた。
4メートル82センチという最初の世界記録は2003年に達成した。結局、08年北京五輪で彼女は優勝した。5メートル5センチという世界新記録で。
その後、低迷が続く。09年の世界陸上ベルリン大会でイシンバエワは3度目の試技に失敗し、痛々しく顔を覆った。
翌年のドーハの世界室内陸上選手権で敗北を喫し、彼女は「無期限の休養に入る」と宣言した。その後、復帰し、韓国のテグ世界陸上で敗れた。故障や痛みが頻発するようになった。イシンバエワは再び休養し、それから復帰した。
11年の早春には、ボルゴグラードにいた。モナコへ戻りたくなかった。練習をする気になれず、棒高跳びなどやめてしまいたかった。最初のコーチ・トロフィーモフ氏の話では、大斎期直前の赦罪の主日、ボルゴグラードの彼の自宅の電話が鳴った。イシンバエワは会ってほしいと告げた。
こぢんまりしたレストランで彼女は目に涙を浮かべ語った。「ロシアへ戻る。また一緒にトレーニングを積みたい。それがかなわないなら、引退する」
才能にあふれた選手をこのまま終わらせるわけにはいかない。トロフィーモフ氏はそう悟った。二人の再挑戦はこの夏、実を結んだ。
イシンバエワはリオデジャネイロ五輪までに競技復帰することを約束し、語った。
「もしもかなわなければ、さわやかに引退します。ですから、ここモスクワで頑張りたかった」。
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