1920年、マリンスキー劇場でオペラ『悪魔の力』が上演された。フョードル・シャリアピンは演出と鍛冶屋エリョームカ役を務め、舞台美術をボリス・クストーディエフに依頼した。病身のクストーディフは数年前から車椅子生活となっており、シャリアピンは自ら画家の家を訪ねて、頼み込んだ。クストーディエフは承諾し、ついでに、すぐにシャリアピンの肖像画を描こうと申し出た。来訪時にシャリアピンが着ていた外套が大変気に入り、服装はそのままで、という提案であった。
シャリアピンは可笑しくなった。外套は盗品かもしれない、と言うのである。というのも、その外套は数日前にとある国家機関から報酬として受け取った物だったからだ。そして、ボリシェヴィキのスローガン、「簒奪された物を簒奪せよ」を引用した。すなわち、この外套にも、かつては別の持ち主がいたかもしれないのである。
クストーディエフも笑い、「ならばそれを、絵に記録しましょう。実にユニークじゃないですか。役者で歌手なのに、外套は盗ってきたなんて」と答えた。
初演を終えると、肖像画の制作も継続された。もっとも、シャリアピンにも条件があった。例の「国有化」された毛皮の外套を着た肖像で良いが、必ず、愛犬のフレンチ・ブルドッグのロイカを足もとに描き加えることだった。犬にポージングさせるため、クストーディエフが下絵を描いている間はタンスの上に猫を乗せ、犬に猫を見つめさせた。
次第に肖像画の登場人物は増えていった。シャリアピンの2人の娘マルファとマリーナを描き、彼女らに付き従うシアピンの秘書のイワン・ドヴォリッシンを描き加えた。背景としてクストーディエフが選んだのは、市場の祭りだった。奥の方に野外劇場の足場が見え、シャリアピンの名が躍るポスターも描かれている。あたかも、マースレニツァ祭りのさなかにシャリアピンが公演に来たかのような風景となった。
肖像画は、1922年春に展覧会に出品された後、すぐにシャリアピン自身が購入し、以後、肌身離さず大切にした。フランスに移り住んだ時に、肖像画も持って行った。画はパリのシャリアピンの自宅の暖炉の上に飾られていた。
1968年、彼の娘たちがレニングラード演劇博物館に寄贈した。クストーディエフは同じ肖像画をやや縮小したサイズでもう1度描いており、こちらはサンクトペテルブルクのロシア美術館に収蔵されている。
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