タクシー運転手として働く厳格なソ連人男性イワン・シュリコフは、仕事中に不運なブルースサックス奏者アレクセイ・セリヴェルストフと出会う。目的地に到着したら、このミュージシャンはイワンをだまして逃走する。イワンは後を追うが、アレクセイがこのサックス以外何も持っていないことを知り、自分の家に住まわせることにした。こうして、全く異なった男たちの友情が始まるが、どちらもそれがどのような結果をもたらすのか考えもしない。
この映画全体を通して、ソ連が崩壊寸前にあったロシアの過渡期がテーマとなっている(ソ連は正式には1年後に崩壊したが、そのプロセスはすでに始まっていた)。そしてその過渡期に誰もどのように生きていけばよいのかわからなかった。古い体質の男と変化を待つリベラルな男についての映画は間違いなく当時のこの国の話である。
1936年の夏、大粛清のピークの前夜、師団司令官セルゲイ・コトフの家族はダーチャで休息している。彼らは革命前の生活を維持しており、これが常に続くことを夢見ている。しかし、招かれざる客が家の敷居をまたいだ時、その牧歌は崩れ去る…。
ニキータ・ミハルコフ監督は、あるインテリゲンチャの家族の例を使って、スターリンの粛清がいかに人々の生活を破壊したかを示した。1995 年、ソビエトの全体主義の機構を描いたこの映画が「最優秀外国語映画」部門でアカデミー賞を受賞し、その他多くの国際的な賞を受賞した。
主人公はライヴォという名のフィンランド人で、後に本を書くためにロシアの習慣と伝統を研究している。彼は友人のジェーニャを説得して、狩りに参加させてもらう。彼らはロシア人の狩猟者たちと森に行く。しかし、時間が経てば経つほど、ライヴォはロシア人にとって狩猟というプロセスはそもそも全く重要ではないことを理解し始める。やがて周りで起こることは全く意味がなくなってしまう。
この映画は、ウォッカ、バーニャ(ロシア式サウナ)、クマなどロシア人の好きだとされるものの固定観念を利用している。しかし、ありえないような状況の背後にはロシア社会への深い暗示が潜んでいる。多くの批評家はこの映画を「ロシア人の魂の肖像」と呼んでいる。
ヤクーチアで巨大なダイヤモンドが発見された。あまりにも大きいため、国の対外債務をカバーできるだけでなく、すべてのロシア居住者にカナリア諸島での3年間の休暇を与えることもできるほどだ。当然、誰もがそのようなものを手に入れたいと考える。すると盗難再犯者ワシリー・クロリコフがそれを盗み、政府からマフィアまでの周りのすべての人が彼を追いかけ始める。
90年代の多くの映画と同様、この映画も権力の危機、法執行機関の危機、関心や世界観の危機といったこの時代の肖像を描いている。この映画の脚本家ヴィタリー・モスカレンコは、この映画の哲学を次のように述べた。「資本主義は生き残ることができれば楽しいものだ」
第一次チェチェン紛争中、サーシャ准尉とジリン兵卒はチェチェンの人里離れた村の住人アブドゥル・ムラトに捕らえられる。共に捕らえられた2人は仲良くなり始める。アブドゥル・ムラトが、同じようにロシア人に捕らわれている自分の息子と引き換えに解放してやると言った時、助かる希望が現れる。
民族間の紛争下における生き残りをかけた闘いを描いたこの映画はレフ・トルストイの同名短編小説をモチーフにしている。1997年、この映画はアカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた。
チェチェン戦争から帰国したダニラ・バグロフは、ロックバンドのミュージックビデオの撮影現場で喧嘩に巻き込まれる。彼は警察に連行された。ダニラの母親は息子を叱り、今後同じようなことが起こらないように「更生」のためサンクトペテルブルクにいる兄ヴィクトルのところに彼を送る。しかし、ダニラは兄が殺し屋になっていることを知り、彼と同じ道をたどる。
戦後、社会に溶け込めず再び武器を手にした男を描いたアレクセイ・バラバノフの映画はロシア語圏の文化に大きな影響を与えた。これは、戦争がそこから帰還した人にどのような影響を与えるかを描いた映画である。
地方の海辺の町で結婚式が執り行われている。しかし、結婚式はツーリストという名の犯罪組織のボスによって暗い影を落とす。彼は花嫁に言い寄り、新郎に頭を殴られる。警察は犯罪組織のメンバーたちと協力して新郎を罰しようとするが、新郎は逃走する。そして警察、犯罪組織、家族など誰もが彼を追う。
このコメディは90年代の映画ファンにとって、武器を持ったマフィアが自由に街を徘徊するギャング・ロマンスの時代を嘲笑し、麻薬中毒がエキゾチックな外国映画だけのものではなくなった映画である。『ママ、悲しまないで』は崩壊よりも作られるまでに長い時間を要したソ連の「神話」をすべて巧みに破壊している。
アトリエのオーナー、ヨハンは普通のポートレート写真を撮っているが、裏ではサドマゾのエロティックな写真も撮っていることを誰も知らない。創造的な衝動を抑えることができず、2つもの家族を自分の悪質な趣味の犠牲者にしてしまい、徐々にその家族を堕落させ、崩壊させてしまう。
アレクセイ・バラバノフ監督によればこの映画はもっと早く公開されるはずだったが、過激なストーリーのせいで撮影資金を見つけることが非常に困難であったという。
この映画の舞台は「医師団陰謀事件」(ソ連当局によって捏造された、ソビエトの著名な指導者らを殺害しようと陰謀を企てたとして告発した事件)の時代の医療局長官ユーリー・クレンスキーを中心に展開する。彼は危険を感じてコニャックを大量に飲む。特に病院で自分自身の影武者と対面した後には。ユーリーはそのような影武者が国家治安機関によってでっちあげの告発に利用されていることを知っており、そのため次は自分が「医師団陰謀事件」のターゲットになることがわかる。
アレクセイ・ゲルマン監督自身は、自分の映画はロシア問題の根源を追跡し、なぜロシア人がこれほど不幸なのかという疑問に答えようとしたものであると主張した。この映画がプレミア上映されたカンヌ国際映画祭では、批評家はこの映画を理解できなかった。しかしその後、彼らはここ10年間の素晴らしい映画の一つとして認め、厳しい批判を謝罪した。
音楽学校に通う平凡な学生カーチャが集団レイプの被害者となる。加害者の中には警察の大佐の息子も含まれており、彼の父親はこの事件をなかったことにしようとしている。カーチャの祖父で第二次世界大戦の退役軍人であるイワン・アフォニンは、レイプ犯たちが罰されずに放置されないよう、自らが犯罪者を罰することを決意し犯人たちを捜し始める。
絶大な人気にもかかわらず、この映画は復讐とリンチを美化しているとして厳しく批判され、その後「ヴォロシーロフの狙撃手」というフレーズが一般的な普通の言葉になった。それはリンチを実行する人たちを意味した。中には映画からインスピレーションを得た人たちもいた。たとえば、2007年にブリャンスクで年金受給者が自分を殴った人々を射殺した罪で有罪判決を受けた。後に彼は、スタニスラフ・ゴヴォルヒン監督のこの映画に触発されたと認めた。
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