ソコロフの事件簿

AP通信
 1917年の2月革命の後、帝政ロシア最後の皇帝ニコライ2世は退位し、皇帝と皇后、5人の子の生命は1年半後に断ち切られた。この時、歴史の舞台に登場したのが予審判事のニコライ・ソコロフだった。ニコライ皇帝一家の運命を我々が知っているのは、彼の活動によるところが大きい。そして、ロシアの政権はソコロフの関連資料書類を世界中で収集してきた。その記録は、闇に包まれていた史実を決定的に解明するものだった。

捜査担当の予審判事

 ニコライ・ソコロフは1882年5月22日にペンザ県に生まれた。法律を学び、1917年には予審判事になっており、革命後も旧体制に忠実だった。

 「ソコロフは病を口実に休暇をとり、シベリアに去った」。ロシア連邦捜査委員会・刑法学局首席捜査官・刑法学者、ウラジーミル・ソロビヨフ氏は語る。同氏は1993~2011年に皇帝一家殺害事件の再捜査を指揮し、終了まで導いた。

 ソコロフは、革命後の内戦に際し白軍が樹立したシベリア政府の代表者に、ウラル以東で会い、イルクーツク、後にオムスクの検事局に採用された。

 皇帝一家銃殺の悲劇が起きたエカテリンブルクには事件の8カ月後に軍と共に現地を訪れている。

 ソコロフは後年、自著「皇帝一家殺害」にこう記した。「2月5日、提督(白軍のシベリア政府最高執政官アレクサンドル・コルチャーク)が私を呼び出し……捜査を私に委ねた」「それは歴史的事実であり、特別な性格を帯びた」

ロマノフ皇帝と皇后、5人の子=Getty Images

 ソコロフの証言がなければ、現代人がこの事件を解明することは難しかったろう。

 「ソコロフの主な貢献は、皇帝一家が銃殺されたことを彼が証明できた点にある」とソロビヨフ氏は言う。

 いずれの証言・証拠も「殺害は7月17日に行われた」ことを示したと後にソコロフは書く。

 ソ連の秘密警察KGBの前身チェーカーは白軍がエカテリンブルクに迫るなか、皇帝一家の殺害を急ぎ、遺体を現場のイパチェフ館から廃鉱のあるガニナ・ヤマに運んだ。

 「予審判事は切り刻まれ焼かれた遺体、遺品などを発見した。それらは皇帝一家を身近に知っていた者たちにより確認された」。歴史家リュドミラ・ドゥイコワ氏はこう語る。

ニコライ・ソコロフ捜査官=ビタリー・シトフ撮影

 当時、ソコロフは遺体は焼かれたと推測したが、後にこれは覆される。うまく焼却できなかったので、別の場所で硫酸をかけて埋めたことが判明した。

 白軍は敗北し、東方に退却。ソコロフも捜査中断を余儀なくされる。彼は貴重な資料を集め、二つに分けてフランスに送った。

 ソコロフは20年3月にロシアを出国し、パリに逃れた。晩年、皇太后マリア・フョードロブナ、ニコライ2世の母のために報告書を完成した。ソコロフはロシアに戻り捜査継続を望んだとの証言もあるが、24年、42歳でフランスで客死した。

ウラジーミル・ソロビヨフ氏、ロシア連邦捜査委員会・刑法学局首席捜査官・刑法学者

 「ソコロフの主な貢献は皇帝一家が銃殺されたことを彼が証明できた点にある。当時は、ロマノフ家の運命に関してはさまざまな説が飛び交っており、そのなかには偽皇太子を生み出すに至るものまであった」