綿入れの上衣と共同住宅の伊達男たち

国民にとうに忘れ去られたヒーローやモノたち…。「ノーリターン」や「逃亡者」といった長編小説の著者である作家アレクサンドル・カバコーフは、ソ連時代の生活の燦めく欠けらを拾い蒐めた。

ヘアー用ネット


写真提供:kinopoisk.ru

 「男性の短い髪型を理想的な形に保つための伸縮性のある糸でできたキャップ。ふつう、それは、洗髪後の髪がまだ湿っているときに被る。男性は、髪を真ん中で分けることは稀れで、七三または当時の呼び方では英国風に分けることのほうが多かった。大半は、髪を後ろへ梳かしつけていた。しかし、それでもやはり、ネットは、気障の証し。どの共同住宅にも、そんな年配の独身の洒落者がいた。毎朝、頭にネットを被ったそんな御仁を目にすることができた」

 

シガレットケース

ユーリイ・ソモフ撮影/ロシア通信

 「シガレットケースは、ありとあらゆるものがあり、蓋に打ち出し模様(たいていは牧羊犬の鼻面)のついたブリキの手製の戦場用のものもあれば、委託販売店を通して金持ちの手に入った古い時代のものもある。宝石や絵柄ときにはかなりお道化た能書きの添えられた革命前に造られた銀製のものもある。金製のシガレットケースを買うこともできた。それは、ひじょうに値が張る。カターエフの構想に基づいて「12脚の椅子」を書いたイリフとペトロフが約束通り金製のシガレットケースをカターエフに買わなくてはならなかったほど。彼らは、誠実な人としてそれを買った。しかし、南方の出身らしく倹約な人としては、婦人用、つまり、小さく細くて長いシガレットケースを買った。

センスのよい人々は、きまって戦利品の革製のシガレットケースを携行していた。後に、今風の煙草が流行るにつれて、シガレットケースは姿を消した。今では、喫煙そのものが、ほとんど刑事犯罪扱いされている」

 

ブールキ 

「ふつう明るいクリーム色をした、厚いフェルトで縫製された丈の高い長靴。縫い目(前後と両脇)は、赤っぽい茶色の革の帯で隠されている。下の部分では、爪皮(胴上の)が、一面、革で縫いつけられている。靴底は、ふつうの長靴と同じもの。実際、それは、ヴァーレンキ(フェルトの長靴)なのだが、細くて、縮絨されておらず縫製されている。それを履いていたのは、供給部職員、すなわち、社会主義の祖国のあちこちを絶え間なくうろつき回る供給機関の勤務員たち。彼らの任務は、彼らを派遣した企業にとって必要な商品を生産する工場を見つけること。そうした生産の「仲人たち」は、計画経済の欠陥を補っていた」

 

チェログレーイカ 

G.ゲルマン撮影/ロシア通信

「私は、讃美すると同時に苦い悔恨の念を表わしたい。ロシアのチェログレーイカ(綿入れの上衣)の不遇な運命に対して。それは、実用性、万能性、利便性といった多くのクオリティーにおいてアメリカのジーンズに匹敵する衣服である。ジーンズにチェログレーイカという組み合わせもありえたろう。私は、この組み合わせをちゃんと着こなしている唯一の人物を知っている。それは、ユーラ(ユーリイの愛称)・ロースト。彼は、紐をベルトにしているもののアメリカのすてきなジーンズを穿き、チェログレーイカを纏っている。しかし、その組み合わせは、ポピュラーにはならなかった。なんとも無念である。ジーンズは、全世界を席捲したのに、チェログレーイカは、事実上、ついに強制労働収容所の外へ出ることはなかった。チェログレーイカの悲運は、その発祥国の悲運に重なる。それは、兵士の衣服であり、軍の制服に含まれていた。囚人たちも、それを着ていた。もっとも、彼らは、それがチェログレーイカであると判らないほど破れ綻びたチェログレーイカを着ていたが。そこでは、身体を暖めるというチェログレーイカ本来の意味は、ものの見事に失われている」

 

二階建てのトロリーバス


写真提供:Wikipedia

 「1950年代の初めまで、モスクワの中心街には、二階建てのトロリーバスが走っていた。それは、とても短いポールをもつ奇態な乗り物だった。それらはまったく安全というわけではなく、そうした乗り物は安定性に欠けていた、と思う。中心部とディナモ方面を往復する形でそうしたトロリーバスがゴーリキイ通りを走っていたのを、よく憶えている。ディナモでサッカーの試合があるときには、ファンで鈴なりになったトロリーバスが走っていた」

 

プリームス 

 

ミハイル・クレメンチエフ/ロシア通信撮影

「都市では、すべての家がガス化されているわけではまったくなく、ケロシーンカ(灯油ストーブ)かプリームス(ポンプ式灯油コンロ)すなわち灯油を燃やすバーナーで調理が行われていた。それらは、多かれ少なかれ似通った構造をしていた。後に、ケロガース(加圧式灯油コンロ)と呼ばれる装置がお目見えした。これは、本質的にはやはりバーナーだが、燃える灯油をより効率的に噴射する。プリームス、ケロシーンカ、ケロガースは、共同住宅の台所に並んでいた。みんなが仕事から戻り、夕食の時間になると、単調に唸る音が聞こえてくる。プリームスの音は、ソ連の共同住宅の暮らしの紛れもない特徴である」

 

ゴムの木 

 「共同住宅に客間などあろうはずもないが、客間らしき部屋に欠かせない装飾のエレメント。とんでもない狭苦しさにもかかわらず、見える場所にゴムの木が置かれていた。それから、中国の林檎(姫リンゴ)の実る植物も。それは、短く「キターイカ(中華ちゃん)」と呼ばれていた」

 

自動車


ユーリイ・アブラモチキン撮影/ロシア通信

 「古典的なソ連の“中世期”(1930年代~1950年代初め)の人々の自動車に対する意識には、特別なものがあった。自動車の所有者は、チャースニク(私有者)と呼ばれていた。自動車は、生涯に一台買うものであり、その通り、生涯にわたって活躍してくれることもあった。それは、かなり丁寧に組み立てられ、鉄が厚いため、塗装がとことん悪いにもかかわらず、あまり腐食しなかった。総じて、ソ連の自動車は、ソ連の経済システムにおいても今風に言えば競争力のある優良品の製造が可能であることを、実証した。しかし、そのためには、技術管理部に恐い同僚がいる必要があった。永遠でそれなりにエレガントな「ポベーダ」や「ジム」からソ連デカダンス末期のすぐにポンコツになる「モスクヴィチ」や「ヴォルガ」へというソ連の自動車の歴史が、このことを如実に物語っている。

 ソ連の社会主義が崩壊寸前となって協同組合が許可されると、「モスクヴィチ」を組み立てていたモスクワ軽自動車工場の塀際に、工場から出荷され購入されたばかりの「モスクヴィチ」をきちんと仕上げる協同組合の作業場が建てられた。つまり、後のレーニン・コムソモール名称自動車工場で働いていた同じ労働者たちが、自動車を解体して新たに組み立てていたのである。そうすれば、しばらくの間はそれらに乗ることができるのだった。

 

ショーウィンドウ

I.ブルヤ撮影/タス通信

 「ショーウィンドウには、商店で販売されている商品は、けっして展示されなかった。いつも、模型かボール紙に描かれた絵が並んでいた。それももっともな話であり、ソ連の国民にたとえば肉屋なら肉屋へ行くように宣伝する必要はなかった。それゆえ、ショーウィンドウには混凝紙で造ったソーセージの模型が置かれていたのである。タンのソーセージの模型は、一目瞭然だったが、その珍味は、今のそれとはやや趣きを異にする。その断面は、チェス盤のように描かれており、黒い升目は肝臓の塊を、白い升目は脂身の塊を、それぞれ表現していた。

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ソ連の甘美な味

 エリセーエフ商店のショーウィンドウには、模型ではなく実物もあった。たとえば、二~三種類のイクラ、粒状のベルーガやオショートルのキャビア、圧縮イクラといった魚卵の入った大きな陶製の桶があった。しかし、魚卵は、比較的高価であり、あまり買う人もおらず、干乾びていたので、そのショーウィンドウは、さほど見栄えがしなかった。

 第一トヴェルスカヤ・ヤムスカヤ通りには、1960年代まで玩具店があった。そこのショーウィンドウには、窓から小さな人形たちが見える何階建てかの人形の家があった。それは、すごく大きな人形の世界だった。そのショーウィンドウには、まさに釘づけになったものだ。もちろん、その家も、その一部すら、買うことはできなかった。概して、まず第一に、ソ連の人は、商店へ行って自分の買いたいものがないことを知り、それから、次の一手を考えていた」

 

ファストフード


アナトリイ・ガラーニン撮影/ロシア通信

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ソ連時代のセックス

 「シロップなしとシロップ入りの炭酸水の自動販売機、コップを洗うための噴水器のついた特殊な円形の装置。もっとも、コップは、酔っ払いが掻っ払ったり、割れたのに補充されなかったりして、ないこともざら。自動販売機は、鉄の横っ腹をがんがん叩かないと動かない。炭酸水は、ワゴンでも売られていた。また、通りには、ドライアイスの入ったアイスクリームのワゴンもあった。もっと稀れながら、ピロシキのワゴンもあった。モスクワっ子なら誰もが知っているその一つは、ネグリーンナヤ通りとプーシェチナヤ通りの角の中央百貨店の向いにあった。揚げたピロシキは、肉とはいえ実際にはあらゆる肉の切れ端を挽肉にしたものやジャムが入っていた。そんなものでも、喜んで頬張るご馳走だった」