露営地での文化交流

画像提供:FineArt/Vostock-Photo

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160年前の1854年9月初めに、仏・英・トルコ同盟軍がクリミアの沿岸に上陸し、まもなくセバストーポリ要塞とセバストーポリ港を包囲した。

 セバストーポリ包囲は、ロシア軍と英仏連合軍の衝突だっただけでなく、異文化の出会いでもあった。戦場でロシア軍と連合軍は敵同士だったが、休戦時には、露営地で活発に交流し合った。地名が名称としても使われるようになった「バラクラバ(目出し帽)」、人名から来た「ラグラン型外套」、「カーディガン」、そして吸い口付き巻きタバコ、軍事ジャーナリズムなどが登場したのも、まさにセバストーポリ包囲時のことだった。

 クリミア戦争は、仏、トルコと同盟関係にあった英国に対してロシアが公然と敵対した最初の抗争になった。国家同士は国際舞台で互いに反目していたが、戦場で衝突したのは生きた人間であり、それは一般兵卒だけでなく、戦争が礼儀、礼節を忘れる口実にならなかった将校らも同様だった。ロシア将校らは、フランス語、英語を話し、戦闘の合間の休戦時には、その翌日にはまた不倶戴天の敵同士になる人びとと、品位をもって交流することができた。

 

『これは神のご意思』 

 英仏艦隊によるオデッサ砲撃のあと、オデッサ市封鎖のために現地に留まった英国のフリゲート艦「タイガー」が、濃い霧のなか、オデッサ港入り口近くの浅瀬に乗り上げた。捕虜になった225名の乗員将兵は、最初はオデッサに収容され、その後、ロシア皇帝ニコライ1世自身の指令により釈放され、帰国が許された。捕虜らは現地住民らによる不断の配慮のもと、すぐれた条件下の日々を過ごした。それについて水兵らが歓喜の手紙を家に書き送っている。「ある日、休戦旗を掲げて年配のロシア人将校が現れた。英国水兵グループに一礼し、彼らに嗅ぎタバコを勧めた。彼は、英国水兵らと共に、勧められたラム酒を飲み、英国将校に『ロシア人は英国民に非常に好感を持っており、決してあなた方と戦いはしなかっただろう。だが、どうやらこれは神のご意思らしい』と言った」

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劇的なクリミア史

 将校らが紳士的な態度をとっていたとしても、兵士らは、いつも礼儀とモラルを守る態度だったわけではない。ヨーロッパ風な教養のある将校らとちがい、ロシアの一般兵卒にしてみれば、英仏将兵は、まったくのよそ者で、どんな代価を払っても追い出さねばならない占領軍としてしか見ていなかった。『いつか嫌な事件の目撃者になった』と英国軍射撃軍曹ティモシー・ゴーイングは言った。『若い将校がロシアの負傷兵に自分の水筒からブランデーを少し分け与えた。だが彼が、先へ進もうとして向こうを向くと、その負傷兵は彼を撃った』

 だが連合軍兵士も、文化程度に違いはなかった。侮辱的な態度や拷問には、かなりたびたび出くわした。とくに、アルジェリア土人との戦争で荒んだ仏軍アルジェリア植民地軍兵士は際立っていた。クリフォード大尉の従卒カフィアは、ひどい直接的な表現で『一番楽しいのは、戦場を歩いていて、敵軍兵士の手足の無い死体を見た時だ。<果樹園のリンゴ>みたいに見える』。彼はいつか、ロシア兵の軍刀やヘルメットをたくさん担いで、こう言いながら戻って来た。『なんて素敵だ! 死体がごろごろいるぜ。あちこちに手や足がころがっている。みんな敵どもだぜ!』

 

言葉と生活に見る<クリミアの足跡> 

 クリミア戦争は、戦った双方の言語に足跡を残した。とくにそれが顕著なのが衣類の新しい要素だ。英語には今もなお、目鼻の部分を開けた目出し帽を意味する「バラクラバ」という語がある。この言葉を最初に使ったのは、1854年~1855年の冬に適当な冬用軍装品がなく、クリミアのバラクラバ市郊外で凍る寒さを体験しなければならなかった英国軍兵士らである。もう一つ有名な例になったのが、特別な裁ち方の袖を持つ「ラグラン型外套」だ。これを着たのは、クリミア英国軍司令官の男爵フィツェロイ・サマーセット、ラグラン卿だった。ラグラン卿はまだ若い頃にワッテルローの戦いの際に右手を失い、この外套を着ることによって、右手がないことを隠そうとした。もう一つの衣類が、襟のない前開きで、ボタンでとめられる毛編みセーター「カーディガン」。これは、快適な身の回りを工夫することで知られていた英国の将軍ジェームズ・ブルデネル、カーディガン卿の名前からつけられた。クリミアはヨーロッパ人にとって、かなり寒く、カーディガン卿はそうした寒い日に、立ち襟軍服の下に好んでセーターを着たためという。

 広く知られる伝説によれば、吸い口付き巻きタバコ、つまり、タバコを紙製の薬莢に詰め込み、それを吸う習慣(連合軍もロシア軍も、トルコ人のやり方をまねた)のようなものも、このクリミア戦争の産物だという。

 

講和条約 

 1855年末に、戦争の当事者双方が抗争継続の無意味さを知るようになった。莫大な損失(セバストーポリ近郊だけで連合軍は、戦病死者を計算に入れずに、約9万人の兵士を失った)により、仏英両国の社会に反戦機運が高まった。ロシアも深刻な事態に陥った。交渉の結果、1856年3月18日に締結されたのがパリ講和条約である。それは、すべての大国が受け入れなければならない妥協の産物だった。戦後のヨーロッパの力関係は基本的に変わらず、抗争が始まる原因となった論争問題は、そのまま解決されなかったのだから。残念ながら、それから60年後の1914年に第1次世界大戦が始まり、それらの諸問題の解決方法として、ふたたび武力が使われることになったのだ。