大力のイワン・ポドゥブヌイ

7月10日にロシアで、伝説のレスラーの伝記映画『ポドゥヌイ』が公開された。=写真提供:kinopoisk.ru

7月10日にロシアで、伝説のレスラーの伝記映画『ポドゥヌイ』が公開された。=写真提供:kinopoisk.ru

イワン・ポドゥブヌイは「世界のチャンピオンの中のチャンピオン」と呼ばれていた。第二次世界大戦中でも、敵が一目置いたほど。

 史上もっとも偉大なアスリートの一人でレスラーのポドゥブヌイは1905年、34歳でフレンチ世界選手権(現在のグレコローマン)のタイトルを初めて獲得し、その後30年以上も維持し続けた。引退したのはなんと80代。小さな格闘では負けもあったが、大会では一度も負けなかった。本人は人生で出会った自分より強い人物は父一人と言っていた。

 ポドゥブヌイがいつも手に持っていたステッキは鋼鉄製で、重さは16キログラムあった。参加した試合は、しばしば数時間続いていた。勝ち取ったメダルは何箱分にもなる。ただそのメダルのほとんどは、内戦時代に白系将校と逃避行した妻が、持ち去ってしまった。

 ポドゥブヌイの人生はその天分に完全に従ったものだった。時に鮮明で激しいエピソードのあるロマンをたどったようなその運命には、民衆、文化、世界の運命が反映されていた。

 

大力の男はサーカスから

 ポドゥブヌイのキャリアはサーカスから始まる。電柱がポドゥブヌイの肩に載せられ、それが半分に折れるまで両端に人がぶらさがったこともあった...サーカスのおかげで内戦の動乱時代を無事に乗り越えることができた。赤系の前で始め、白系の前で終えたこともあったという。

写真提供:ロシア通信

 20世紀初め、ヨーロッパではフレンチが流行。試合や賭けが大金をもたらした。試合結果はしばしばプロモーターと買収された選手の間で、事前に決まっていた。

 正々堂々とした戦いの支持者であったポドゥブヌイは、初のヨーロッパ大会でいきなりこの問題にぶつかる。対戦相手のフランスの若きレスラー、ラウル・デ・ブシェの肌には事前に油が塗ってあったため、するりとポドゥブヌイをかわしていた。だが油は汗と一緒に流れた。不正が発覚したデ・ブシェは勝利をポドゥブヌイから買収しようと試みたが、不正は公にされ、人々の怒りを買ってしまう。デ・ブシェは殺し屋を雇い、ポドゥブヌイ殺害を試みたが、ポドゥブヌイは殺し屋を脅して退散させた。殺し屋は殺害できなかったものの、報酬をデ・ブシェに要求。支払えなかったことを理由に殺し屋は依頼主のデ・ブシェを殺害してしまう。

 

最後までロシア人

 ソ連の領域がナチスドイツ軍に占領されていた時代、スポーツから離れ、年老いたポドゥブヌイは、アゾフ海沿岸のエイスク市に暮らしていた。いつもソ連の勲章を外さずに歩いていたが、ある時ナチスドイツ軍がこの勲章を没収。だが相手が誰かわかるとすぐに解放し、ビリヤード場の仕事まで紹介した。

 ポドゥブヌイにビリヤード場から追いだされた酔っ払いドイツ人たちは、その後”イワン雷帝”に追い出されたと自慢した。多くの将校は子ども時代、ポドゥブヌイの試合を観戦し、ずっと覚えていた。ポドゥブヌイはドイツでコーチをしないかと誘われたが、「私はロシアのレスラーだし、それは変わらない」と言って断った。エイスク市が解放された後、ソ連のチェーカーもポドゥブヌイには触れなかった。ナチスドイツ軍に協力した罪を問うに十分な資料もあったのだが。

 「無敵のイワン」に勝ったのは飢えだった。活発なエネルギー代謝に慣れていた身体は、普通の人の身体よりも多くの食べ物を要求し、ドイツ人から月5キロの肉をもらっていたこともあった。だが戦後のロシアの困難な条件の下で、これは不可能だった。支援もあったが、足りなかった。すべての賞品を売り、クレムリンに食糧配給の拡大を要請する手紙を書いたが、返事は来なかった。すべてに疲れたポドゥブヌイは、肉体的に苦しんだ。世界のチャンピオンの中のチャンピオンの面影はもはやなく、がっくりと下がった肩、悲しみと怒りが定着した顔が印象的になる。

 一説によると、西側の銀行口座にはポドゥブヌイの多額の預金が残っていたという。欧米での対戦マネーである。だが当時はそれを使うことは不可能だった。

 ポドゥブヌイは1949年に死亡。墓石には「ここにロシアの大力眠る」と彫られている。死後数年経過してからポドゥブヌイの映画が制作されたが、その姿はイデオロギー的に調整されたソ連ロシアの愛国者だった。愛国主義の新たな波が起こっている今日、ポドゥブヌイは再び脚光を浴び、「ポドゥブヌイ」という映画が公開された。ロシアは偉大なるレスラーを誇りにしている。だがこれほどの人物はもはや母国だけでなく、世界のスポーツ、歴史、文化の一部なのだ。