「あるデモのときに不意に武器が現れた・・・」

モスクワへ移住できたのも、ひとえに、ヤロブさんのロシア語の知識、それから、ロシアに住んでいるヤロブさんの兄弟がビザ取得のために招聘状をヤロブさん一家へ送ってくれたおかげだ=ミハイル・シニツィン撮影

モスクワへ移住できたのも、ひとえに、ヤロブさんのロシア語の知識、それから、ロシアに住んでいるヤロブさんの兄弟がビザ取得のために招聘状をヤロブさん一家へ送ってくれたおかげだ=ミハイル・シニツィン撮影

シリアで軍事衝突が勃発したとき、多くの家族が避難を余儀なくされ、ロシアへ逃れた家族もいる。39歳の薬剤師であるヤロブ・ラシドさん、主婦である妻のスザンナ・アンナジさん、そして、三人の息子さんの5人家族は、ハマー市近郊の町アファミアで暮らしていた。この一家がモスクワへ移住できたのも、ひとえに、ヤロブさんのロシア語の知識、それから、ロシアに住んでいるヤロブさんの兄弟がビザ取得のために招聘状をヤロブさん一家へ送ってくれたおかげだ。

 ヤロブさん一家は、1月末にモスクワへ到着し、現在は、兄弟が見つけてくれた住居に暮らしており、子供たちは学校に通っているが、つらい思い出は今も生々しい。取材を始めると、ヤロブさんの記憶は、事の発端へと遡る。人々は、お祭り気分で子供を連れてデモへ繰り出し、集会を止めさせる者もなかった…。

 ヤロブさんは、こう回想する。「私もなぜなのかわからなかったのですが、あるデモのときに不意に武器が現れたのです。一般市民を守るためとのことでした。私たちの町では、アルスケルビア(人口2万人のクリスチャンの町)への入口の軍の監視所でオートバイが爆破されるまでは、一人も殺害されたり逮捕されたりすることはありませんでしたが、その後、私たちの町のそばに軍がテント村を設営しました」。

 

「なぜ私たちを人間の盾にするのか?」 

 住民たちにとって意外なことに、ムスリム同胞団の戦闘員たちが、連日、テント村のほうへ砲撃をするようになったという。居住地区の住民が自分たちの家を軍の砲撃のために使わないよう要請しましたが、戦闘員たちは聞き入れてくれなかった。ヤロブさんによれば、戦闘員たちには、たくさんのお金、武器、車がにわかに現れ、それらがものをいった。

 ヤロブさんは、こう語る。「あるとき私が自分の薬局にいると、武装した男がやってきたので、私は、あなたがたは一般市民を守るために武装しているようですが、それならなぜ私たちを人間の盾として使うのですか、だってあなたがたは人々が暮らしている家から銃撃しているではありませんか、と言いました。もちろん、その男はそれには何も答えませんでしたが、明くる日、住宅から銃撃している者たちと軍のあいだで銃撃戦が始まり、3歳の子供が亡くなりました。それは、一般市民のなかで最初の犠牲でした」。

 妻のスザンナさんは、こう語る。「わが家には、隠れ家として使っていた部屋がありました。私たちはやむなく家を後にしましたが、一週間後、私たちが弾丸を避けていたその部屋に砲弾が命中したのでした。しかし、私たちが避難したところへも戦争は追いかけてきました」。

 ヤロブさん一家は、隠れていた家を後にすると、まず、もっと安全な別の地区で住居を借り、その後、アルスケルビアへ移った。

 

骨肉の争い 

 ヤロブさんは、友人や親戚のことを想い出し、こう語った。「一人は自由シリア軍、もう一人は政府軍、という二人の友人が口論を始め、自由シリア軍の友人が相手に殺されてしまいましたが、殺した人の兄弟は自由シリア軍を支援しており、毎月、6千ドルを寄付していたそうです」。

 スザンナさんの話では、その後、この兄弟の自宅もミルク工場も息子の家も数件の商店も、さらには、近しい親戚の5棟の家も、焼かれてしまったという。

 「この件には何のかかわりもない私のおじの家も焼かれ、商店も焼かれてしまいました。私のおばの家も薬局も…」。

 その薬局は、ハマー市の地区で最大の薬局の一つで、ベビーフードだけでも30万ドル相当の品物があった。店主はそれを守るべく約7万ドルを支払ったが、それでも薬局は焼かれてしまった。

 この事件ののち、地元の住民たちは、ストライキを宣言することにし、一日、すべての薬局を休みにした。ヤロブさんは、こう語る。「私も店を閉めたのですが、開けないなら焼かれるとすぐに脅されました」。他の薬局も同様で、扉が壊され、手榴弾が投げ込まれ、すべてが焼かれてしまった。

 

モスクワの花火の音に怯える子供 

 状況はひどくなる一方で、ヤロブさんの家は、一家で国を後にするまでに3度、ロシアへ移った後に2度、砲弾を浴びたという。

 スザンナさんは、こう振り返る。「たえず砲撃に晒されており、子供たちは怯え、私たちも子供たちが心配なので、しかたなく逃げることにしました。最後は、一部屋に15人が寝起きしていました」。

 スザンナさんは、次男を見ながら、軍事行動が始まる前にはその子がおじいさんの家へ暗くなっても一人で行き来できたことを懐かしむ。今、この子は、一人ではトイレへも行けず、子供たちは、モスクワで祭日の花火が上がると、また戦争が始まったのかと身をすくめる。

 祖国を後にしようとした家族は、ヤロブさん一家だけではない。「およそ65%の住民が、私たちの地区を後にし、トルコもしくはシリア国内の別の地区へ逃れました。それらの人の多くは、パスポートもお金も持っていませんでした」。

 ヤロブさんの故郷では、食べ物、飲み水、電気など、すべてがなくなってしまい、スザンナさんは、自宅でパンを焼きはじめたが、小麦粉はとても高かった。「3日間、家にパンが一切れもなかったこともありました。冬はとても寒かったですね。あるとき、銃撃戦が始まると、私たちは、家の廊下に隠れて、石の床にうずくまりましたが、弾丸がひっきりなしに窓から飛び込んでくるので、部屋から暖かいものを持ってくることもできず、がたがた震えるばかりでした」。

 

「廊下に“住んでいた”」 

 長男のアフメドさんが、自分たちも廊下で寝ていた、と言えば、次男のナセルさんが、こう言い直す。「いいえ、私たちは廊下に住んでいたのです。眠るのも食べるのもそこでしたから」。

 すべてを耐え忍んできたとはいえ、ナセルさんの心には、子供らしい不安が影を落とす。「ここには一人も友だちがいません。イブラヒム、マフムード、ラシド、みんなで来れたらよかったのに…」。

 すると、 三男が小声でささやく。「ぼくはおじさんやおじいさんが恋しいな…」。

 ヤロブさんは、なすすべもなく頭を振るばかり。「帰りたいのはやまやまですが、とうていかなわぬ夢なので、私たちは難民の申請をしました。今、自分にとって最も大事なのは、働く許可を得ることです。仕事なしには暮らせませんから。それでも、私たちの境遇は、他の人に比べれば何百倍も恵まれています」。