政治家、軍人のグリゴリー・ポチョムキン 画像提供:wikipedia.org
ポチョムキンは、南下政策を精力的に推進し、オスマン帝国が支配していた黒海北部沿岸とクリミア半島を獲得、開発するうえで、多大な功績を上げた。これによって、ロシアは南部の暖かい海へに進出し、不凍港を獲得することができた。
女帝との二人三脚
ポチョムキンは、スモレンスク県の小地主の息子で、早くに父を亡くしている。1755年にモスクワ大学に入学し、1757年には、最優秀の12人の学生の一人として、当時の女帝エリザヴェータに拝謁している。ところが、1760年には「怠惰と授業欠席のため」除籍されてしまう。抜群の才能とむら気が早くも現れているようだ。
その後、軍務につき、1762年のエカテリーナ2世のクーデターに参加して、女帝に知られるようになる。70年代以降に女帝の愛人となり、74年か75年には密かに教会で結婚式を挙げたと推測されている。
これと前後して、ポチョムキンは出世街道を駆け上がり、74年に陸軍参議会の副総裁、84年に総裁(つまり軍のトップ)となる。
黒海北部沿岸の獲得、開発のほか、黒海艦隊の創設や、軍装の簡便化などの軍政面でも、彼は大いに貢献している。猛スピードで軍艦を粗製乱造したおかげで、露土戦争(1787~1791)にどうにか間に合い、戦果を上げることができた。
この戦争では総司令官を務めたが、緩慢な指揮ぶりは、名将スヴォーロフなどから批判を浴びた。
この頃、ポチョムキンはすでに健康を害しており、91年に任地の戻る途中の道中で没した。享年52歳。
ロシア帝国の南下政策を推進
ポチョムキンの最大の功績は、ロシア帝国の南下政策を推進したことだ。
ロシアは18世紀を通じ、黒海進出を目指して南下政策を進めてきたが、第一次露土戦争(1768~1774)でトルコ軍に勝利して、74年にクチュク・カイナルジ条約を結び、念願の黒海進出を果たした。
この条約で、トルコは、キプチャク・ハン国の流れを汲むクリミア・ハン国に対する宗主権を失い、ロシアにボスポラス海峡の自由航行権を与えた。
以後、ポチョムキンが中心となって、黒海北部沿岸地方の開拓を急ピッチで進めていくが、重要な戦略拠点であるクリミア半島の獲得の課題は残っていた。
「力の真空地帯」にして、根回しの上、併合する
クリミアでは、トルコの影響力が低下して、“力の真空地帯”となり、1779年には反乱が起こる。親ロシアのハンであるシャヒンが、親トルコ派に国から追い出されたのだ。1782年に、女帝の命で、ポチョムキンが内乱を鎮圧し、シャヒンをハンの位に戻したが、ポチョムキンは、これを機にクリミアを併合して直接統治することを女帝に進言する。
女帝は早速、オーストリアのヨーゼフ2世に根回しをして、併合の了解をとりつけ(といってもヨーゼフは反対しなかっただけだが)、翌83年4月8日に、トルコの条約違反を口実に、クリミアを併合する。
直ちにクリミアでは、セヴァストーポリ要塞建設が開始され、黒海艦隊が創設されて、同地はロシアの南下政策の橋頭堡となっていく。
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