少年時代のピョートルは、外国人居留地の外国人との付き合いを通じて、航海に興味をもつようになり、1693年夏に、当時ロシア唯一の海港であり、西欧への窓であったアルハンゲリスクを訪れた。ここで彼は初めて、海というものを目の当たりにし、オランダの軍艦も見る。
当時ロシアには、軍艦は一隻もなく、海港といえばアルハンゲリスクだけであったが、ピョートルの頭のなかには既に、海と海軍、貿易の意義、そしてバルト海を制しているスウェーデンが、明瞭に意識されていた。
時代を抜く発想
ピョートルは、アルハンゲリスクに造船所を作るよう命じ、9月10日には早くも、24門の大砲を備えた「聖パーヴェル号」の建造が始まる。
だから、9月10日という日は、ピョートルの戦略のもとに、ロシア海軍が呱々の声を上げた日だといえる。
翌1694年に、ピョートル1世の実母ナタリア・ナルイシキナが亡くなると、ピョートルの親政が始まる。この年の夏にもピョートルは、アルハンゲリスクを再訪し、5月から8月まで長期滞在して、自ら白海を航海している。
月日は流れ、ほぼ30年後の1721年のやはり同日、9月10日、大北方戦争でスウェーデンを下したピョートルのロシアは、同国と二スタット条約を結び、バルト海沿岸の広大な地域を獲得して、この海に支配権を確立した。
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