写真提供:wikipedia.org
生家の零落
シェーフテリ家はもともと、ドイツのバイエルンからの移民で、フョードルの祖父の代に商人、企業家として大成功し、サラトフを本拠に、ワイン、金銀製品、タバコなどを手広く商い、また自ら劇場を創設して成功を収めるなど、まさに地元の名士であった。
ところが、1867年にフョードルの父オシップが早世し、叔父たちも相次いで亡くなったため、商売はいきなりストップ。残された一家が借財を整理すると、ほとんど無一文となってしまった。
恩人トレチャコフ
1871年、一家と旧知の間柄だった商人パーヴェル・トレチャコフ(トレチャコフ美術館の創設者)が援助の手を差し伸べ、フョードルの母を家政婦として迎える。
フョードルは、同71年にサラトフのギムナジウムに入学し、75年に卒業すると、やはりモスクワのトレチャコフのもとに身を寄せる。
まもなく、当時の代表的な建築家であったアレクサンドル・カミンスキーと知り合い、彼のもとでアシスタントとして仕事を始める。カミンスキーはトレチャコフと姻戚だった。
同年夏に、カミンスキーと共同で行った、歴史博物館の設計案が、彼の建築家としての最初の仕事となる(もっともコンペでは別の案が採用された)。
同75年に、モスクワ絵画彫刻建築専門学校に入る。同級に作家アントン・チェーホフの兄ニコライや、未来の画家イサーク・レヴィタンがいた。ニコライ、アントンとは親友となる。
だが、1878年に学校を除籍になる。理由は、病身だった母の看病でしばしば欠席したため。
ヤロスラーヴリ駅、ゴーリキー文学博物館
教育を中断したことはハンディになったが、フョードルは実績を積んで、はね返していく。
代表作としては、モスクワ芸術座(1902年)、ゴーリキー文学博物館(旧リャブシンスキー邸、1903年)、モスクワのヤロスラーヴリ駅(1902~1904年)などがとくに有名。
ゴーリキー文学博物館は、実にしゃれた家で(内装がまた見もの)、シェーフテリのセンスのほどがよく分かる。
ところで、これはシェーフテリとは関係ないが、建築スタイルと対照的に、家の中の雰囲気の重苦しさは・・・。ゴーリキーの苦しい晩年をほうふつとさせ、興味深い。ぜひ一度どうぞ。
1906年から1922年まで、モスクワ建築家協会会長を務める。
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