建築家フョードル・シェーフテリ死す

写真提供:wikipedia.org

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1926年の今日、7月7日に、ロシアのモダン様式を代表する建築家フョードル・シェーフテリ(1859~1926)が亡くなった。

生家の零落 

 シェーフテリ家はもともと、ドイツのバイエルンからの移民で、フョードルの祖父の代に商人、企業家として大成功し、サラトフを本拠に、ワイン、金銀製品、タバコなどを手広く商い、また自ら劇場を創設して成功を収めるなど、まさに地元の名士であった。

 ところが、1867年にフョードルの父オシップが早世し、叔父たちも相次いで亡くなったため、商売はいきなりストップ。残された一家が借財を整理すると、ほとんど無一文となってしまった。

 

恩人トレチャコフ 

 1871年、一家と旧知の間柄だった商人パーヴェル・トレチャコフ(トレチャコフ美術館の創設者)が援助の手を差し伸べ、フョードルの母を家政婦として迎える。

 フョードルは、同71年にサラトフのギムナジウムに入学し、75年に卒業すると、やはりモスクワのトレチャコフのもとに身を寄せる。

 まもなく、当時の代表的な建築家であったアレクサンドル・カミンスキーと知り合い、彼のもとでアシスタントとして仕事を始める。カミンスキーはトレチャコフと姻戚だった。

 同年夏に、カミンスキーと共同で行った、歴史博物館の設計案が、彼の建築家としての最初の仕事となる(もっともコンペでは別の案が採用された)。

 同75年に、モスクワ絵画彫刻建築専門学校に入る。同級に作家アントン・チェーホフの兄ニコライや、未来の画家イサーク・レヴィタンがいた。ニコライ、アントンとは親友となる。

 だが、1878年に学校を除籍になる。理由は、病身だった母の看病でしばしば欠席したため。

 

ヤロスラーヴリ駅、ゴーリキー文学博物館 

 教育を中断したことはハンディになったが、フョードルは実績を積んで、はね返していく。

 代表作としては、モスクワ芸術座(1902年)、ゴーリキー文学博物館(旧リャブシンスキー邸、1903年)、モスクワのヤロスラーヴリ駅(1902~1904年)などがとくに有名。

 ゴーリキー文学博物館は、実にしゃれた家で(内装がまた見もの)、シェーフテリのセンスのほどがよく分かる。

 ところで、これはシェーフテリとは関係ないが、建築スタイルと対照的に、家の中の雰囲気の重苦しさは・・・。ゴーリキーの苦しい晩年をほうふつとさせ、興味深い。ぜひ一度どうぞ。

 1906年から1922年まで、モスクワ建築家協会会長を務める。