陰鬱な美:”ズボンをはいた雲”

ロシアの詩人ウラジーミル・マヤコフスキーは、7月7日に生誕120周年を迎える =Press Photo撮影

ロシアの詩人ウラジーミル・マヤコフスキーは、7月7日に生誕120周年を迎える =Press Photo撮影

ロシアの詩人ウラジーミル・マヤコフスキーは、7月7日に生誕120周年を迎える。彼のことを崇拝する者もいれば嫌悪する者もいる。彼は、詩作を革命的行為とみなして激しい情熱を傾けたが、きわめて繊細な人物でもあった。今日は、そんな彼の詩の音楽を発見するのに最適な日だ。

 ウラジーミル・マヤコフスキーが初めてマルクスを読んだのは、彼が13歳になったばかりのときだった。すぐに秘密の集会に参加し、ボリシェヴィキの政治パ ンフレットを配布し始めた。1909年に逮捕され、ブトゥィルカ刑務所に11ヶ月間投獄された(まだ10代ながら3回目の逮捕だった)。独房103の孤独な環境で、マヤコ フスキーは詩作に精を出し、その腕を磨いた。

 投獄後まもなく、彼は役者、劇作家、ジャーナリスト、漫画家、素描家、児童作家、文化的煽動者、そして何よりも将来に視点を据えた詩人としてその活躍が知 られるようになった。

 「私の詩はあなたに届く / 時代の峰を越えて、/ 政府や詩人の / 頭上を越えて」。

 

繊細な問題児 

 マヤコフスキーは1893年7月7日にグルジアの小さな町バグダティに生まれた。父の職業は森林監視人だった。父に付いて歩き回った山々の中や、川の静か な音に囲まれて、彼は後の人生で創作することになる韻文の調べとリズムを発見したのだった。しかし、彼の伝記作家によると、彼はものを読むのが遅く、繊細 で、時として問題児だった。彼の父の敗血症による悲劇的な突然死は、マヤコフスキー家に多大な苦悩をもたらした。一家はモスクワに移ったが、その日暮らし を強いられた。

 投獄後、彼はモスクワ絵画・彫刻・建築学校に入学し、そこで親友となるダヴィド・ブルリュークと出会った。ブルリュークは彼の「最初の師匠」とのいうべき存在で、彼の 詩の価値を信じ、50コペイカの日当を申し出て、彼が創作に専念し、貧窮することがないように配慮してくれた最初の人物だった。 

 

未来へ向かって冒険に出る

 友人のブルリュークと共に、彼は未来派運動とよばれる冒険に出た。これはブルジョアジーめいた芸術作品をすべて否定するというものだ。未来派は、公の 場で騒動を起こし、ロシアの知識階級からは相手にされなかった。彼らが夜間に催した朗読会は煽動的なものだった。黄色のシャツを纏い、シルクハットとス テッキを持った彼らの顔は色で塗られ、彼らが詩を朗読すると、聴衆は声高にわめいたりブーイングを返した。

 うるさい仲間を引き連れて、当時のサンクトペテルブルクの知識人にとって溜まり場となっていた地下のバー「野良犬」に、詩を朗読にやっ てきた若きマヤコフスキーのことを、女流詩人アフマートヴァは回想している。マヤコフスキーの詩はブローク、ゴーリキー、パステルナーク、アフマートヴァなどによって賞賛された。

 1915年の夏、マヤコフスキーはリーリャとオシップのブリーク夫妻と決定的な出会いをする。彼は生涯を通じて、自らの最も美しい詩作をリーリャに捧げた(” ズボンをはいた雲”、”背骨のフルート”、”男”、”それについて”)。リーリャは彼にとってのミューズだった。関係を持った女性は他にもいたが、彼女が 彼にとって最愛の人だった。

 

「受け入れるか受け入れないか?私にとってわが革命において、そのような質問は存在しなかった」

 作家、文芸評論家のヴィクトル・シクロフスキーは次のように書いている。「マヤコフスキーは、自宅に入るように自然に革命に足を踏み入れた」。 この詩人は、ついに思春期以来の夢をかなえることができた。その瞬間以来、彼が休むことはなかった。

 「通りは我らが絵筆、広場は我らがパレット」というマ ヤコフスキーのスローガンに従った未来派は、新政府と協力した。マヤコフスキーは一人楽団と化した。 彼はソビエト連邦における芸術の組織方法についての会議で持論を述べたり、プロパガンダ用ポスターのために詩作をしたり、工場を訪問するのに奔走した。

 この「革命詩人」は新聞や雑誌に寄稿したり、台本を執筆するだけでなく、”金のために生まれず”、”淑女とフーリガン”(これはオンラインで観ることがで きる)や、リーリャ・ブリークが出演した”映画に身を縛られて”などの映画にも、役者として出た。

 マヤコフスキーはバスター・キートンとチャップリンが 好きだった。彼は非凡な写真家で芸術家のアレクサンドル・ロトチェンコと協力し、新種のグラフィックアートや、共産主義のいわば異端的なブランディングの 方法を開拓した。彼らの象徴的な作品は、今日よく模倣されている。ロトチェンコが撮影した強力で重苦しい印象を与えるマヤコフスキーの写真は、この時代の写真の中でも 最も象徴的な作品に数えられる。またこの写真は、マヤコフスキーがもちあわせていた魅力の視覚的な証拠でもある。

 1925年、彼は代表作”ウラジーミル・イリイチ・レーニン”を発表し、ロシア革命指導者の死を追悼した。同年の7月から10月まで、彼はヨーロッパ、メ キシコ、カナダと米国を歴訪した。その体験は、『我がアメリカ発見記』に綴られている。著名な詩である”ブルックリン橋”は、同書に収められている。

 

「自らのかかとを自作を唄う喉に押しつける」

 詩人セルゲイ・エセーニンの死は彼に大きな衝撃をもたらした。1925年12月27日、エセーニンは手首を切り、次の句で結ばれる詩を血書した。「もはや 死ぬことに新たな意味などない / 生きることが新鮮なわけでもない」。

 エセーニンに対するマヤコフスキーの評価は、時によって上下したが、彼はエセーニンのことを尊敬していた。詩作”セルゲイ・エセーニンへ”で、マヤコフス キーは次のように述べている。「死ぬことが難しいのではない。/ 生きるほうが / ずっと困難なのだ」。

 

謎の死 

 皮肉なことに、ウラジーミル・マヤコフスキーは5年後に同じ道を選んだ。公式には、彼は不幸な愛人関係がもとで自殺を遂げたことになっている。  しかし、彼の作品に個人主義的傾向がより顕著にみられるようになったため、秘密警察が彼を暗殺し、オシップ・ブリークとリーリャが、当局のためのスパイ役を果たしていた、という噂もある。1930年より、スターリンによる粛清が知識人をも対象としていたことは看過できない。

 しかし、この詩人が苦 悩に直面していたことも真実だ。彼は、ソビエト政治がとっている方向性と、自身に向けられた批判にたいへんな失望と幻滅感を抱いていた。彼の生前最後の戯曲『南京虫』と『風呂』は、全く評価されなかった。1930年4月9日、大学生たちとの会合で、彼はあからさまなブーイングと口頭の攻撃にあった。

 マヤコフスキーの死をめぐる事情は未だ不明だが、1930年4月14日、この詩人はモスクワにある自宅のアパートでピストル自殺を遂げたとされてい る。その2日前に書き残されたノートには、次のように書かれている。「彼らが言うように / この件は方が付いた / 愛の舟は / 日常生活によって台無しにされた」。