1812年モスクワ大火を免れた建築物

=エレナ・ポチェトワ/アントニオ・フラゴソ撮影

=エレナ・ポチェトワ/アントニオ・フラゴソ撮影

マトヴェイ・カザコフは、エカチェリーナ2世の統治時代から活動していたロシアの建築家で、モスクワ中心部をまるごと建て直し、1800年から 1804年にかけては、モスクワの大がかりな設計図と、街の重要な建築物のアルバムを作成した。しかし、1812年、ナポレオンがモスクワに迫ると、カザコフは1812年、親戚にモスクワからリャザンまで連れて行かれ、そこで何年にも渡る自身の活動の成果を奪い去った大火について知る。幸運なことに、カザコフが設計した建物の一部は火災をまぬがれ、現在ま で残っている。

=エレナ・ポチェトワ/アントニオ・フラゴソ撮影

モホヴァヤ通り1111 Mohovaya Street

 これはカザコフの設計にもとづいて1782年から1793年にかけて建てられた、モスクワ大学の歴史的部分だ。

 1812年、フランス軍がモスクワ入りす る前に、モスクワ大学の教授と学生はニジニ・ノヴゴロドに疎開し、その際財産の一部を運び出した。同年9月6日に建物で火事が発生し、大きな被害を受け た。

 フランス軍撤退後、教授が社会に大学再建の支援を呼びかけると、市民から約100万ルーブルの寄付金が集まった。大学の主棟の再建は、建築家ドメニ コ・ジリャルティ管理のもと、1819年まで続いた。

 現在、ここにはモスクワ大学付属アジア・アフリカ諸国大学があり、日本語科も所在している。

 

=エレナ・ポチェトワ/アントニオ・フラゴソ撮影

イリインカ通り8&108&10 Il'inka Street

 マロセイカ通りからイリインカ通りに入ると、隣接する2軒の建物を目にする。17世紀、この場所には大使館があった。カザコフは1785年から1790 年にかけて、この土地を18世紀末に取得した商人のパヴロフとカリーニンの依頼にもとづいて、アーチと6本の円柱で装飾された前廊のある、3階建ての横長 の建物を建築した。この建物は主に店、アパート、さまざまな施設(ドイツ・クラブや商人の集会所などになった)として貸し出された。

 19世紀にこの場所は 2分され、左手のニコリスキー通り側は1882年、建築家B.V.フレイデンベルクによって、モスクワ商業銀行用に大きく改築された。

 

=エレナ・ポチェトワ/アントニオ・フラゴソ撮影

イリインカ通り1212 Il'inka Street

 カザコフが1778年に建設した建物は、1904年に改築された。カザコフの建物は、1階部分がアーチになっている、小路に半円が面した大きな3階建て だったが、1830年代に8本の円柱のある前廊が増築された。2階と3階部分には、1917年までシベリア商業銀行と対外貿易向けロシア銀行があった。

 この建物はソ連崩壊後、現代公文書センターになった。

 

=エレナ・ポチェトワ/アントニオ・フラゴソ撮影

ヴォスクレセンスキー1/51/5 Voskresenskii Avenue

 旧県庁の2階建てのこの建物は、大きな造幣局の建物を隠すついたてのようだ。外装には彫刻石の装飾や丹念な軒蛇腹が、そして内部には高い丸天井がある、 バロック建築だ。県庁と造幣局の建物は、1781年にカザコフが改築した。

 この建物には一時期、政治犯などが収容されていた。ロシアの農奴制を批判した「ペテルブルクからモスクワ への旅」の本で逮捕された思想家アレクサンドル・ラジーシチェフも、しばらくここにいた。

 一説によると、ラストプチン総督がここに収容されていた犯罪者を解放 し、放火を指示して、1812年のモスクワ大火を引き起こしたという。

 

=エレナ・ポチェトワ/アントニオ・フラゴソ撮影

小ズラトウスチンスキー通り11 Malyi Zlatoustinskii Passage

 大ズラトウスチンスキー通りと小ズラトウスチンスキー通りの交差点には、カザコフがモスクワを去るまでの30年を過ごし、仕事をした、控えめな邸宅がある。

 1782年に邸宅を購入、1785年に建物を改築し、自分と家族用の東棟、そして賃貸用の西棟の2つの部分にわけた。この邸宅の建物の設計図は、カザ コフが1782年に建設を始めたモスクワ大学の翼棟の設計図とよく似ている。カザコフは自分の建築学校の生徒用として、邸宅に応接間をつくった。

 ロシア革 命(1917年)後、カザコフの邸宅は”消えてしまう”。1793年の「モスクワ案内図」には275番の番号がついたこの邸宅が載っているが、1800年 代の各種資料には記載されていない。1928年になってようやく、「旧モスクワ」委員会がズラトウスチンスキー通りの建物をカザコフ家の一部だと認めたが、それでも文書で認定されることはなかった。この”消えた家”が正式に発見されたのは、研究者らが証明書類を見つけた1953年のことだった。

 

元記事(露語)

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