=エレナ・ポチェトワ/アントニオ・フラゴソ撮影
=エレナ・ポチェトワ/アントニオ・フラゴソ撮影
モホヴァヤ通り11(11 Mohovaya Street)
これはカザコフの設計にもとづいて1782年から1793年にかけて建てられた、モスクワ大学の歴史的部分だ。
1812年、フランス軍がモスクワ入りす る前に、モスクワ大学の教授と学生はニジニ・ノヴゴロドに疎開し、その際財産の一部を運び出した。同年9月6日に建物で火事が発生し、大きな被害を受け た。
フランス軍撤退後、教授が社会に大学再建の支援を呼びかけると、市民から約100万ルーブルの寄付金が集まった。大学の主棟の再建は、建築家ドメニ コ・ジリャルティ管理のもと、1819年まで続いた。
現在、ここにはモスクワ大学付属アジア・アフリカ諸国大学があり、日本語科も所在している。
=エレナ・ポチェトワ/アントニオ・フラゴソ撮影
イリインカ通り8&10(8&10 Il'inka Street)
マロセイカ通りからイリインカ通りに入ると、隣接する2軒の建物を目にする。17世紀、この場所には大使館があった。カザコフは1785年から1790 年にかけて、この土地を18世紀末に取得した商人のパヴロフとカリーニンの依頼にもとづいて、アーチと6本の円柱で装飾された前廊のある、3階建ての横長 の建物を建築した。この建物は主に店、アパート、さまざまな施設(ドイツ・クラブや商人の集会所などになった)として貸し出された。
19世紀にこの場所は 2分され、左手のニコリスキー通り側は1882年、建築家B.V.フレイデンベルクによって、モスクワ商業銀行用に大きく改築された。
=エレナ・ポチェトワ/アントニオ・フラゴソ撮影
イリインカ通り12(12 Il'inka Street)
カザコフが1778年に建設した建物は、1904年に改築された。カザコフの建物は、1階部分がアーチになっている、小路に半円が面した大きな3階建て だったが、1830年代に8本の円柱のある前廊が増築された。2階と3階部分には、1917年までシベリア商業銀行と対外貿易向けロシア銀行があった。
この建物はソ連崩壊後、現代公文書センターになった。
=エレナ・ポチェトワ/アントニオ・フラゴソ撮影
ヴォスクレセンスキー1/5(1/5 Voskresenskii Avenue)
旧県庁の2階建てのこの建物は、大きな造幣局の建物を隠すついたてのようだ。外装には彫刻石の装飾や丹念な軒蛇腹が、そして内部には高い丸天井がある、 バロック建築だ。県庁と造幣局の建物は、1781年にカザコフが改築した。
この建物には一時期、政治犯などが収容されていた。ロシアの農奴制を批判した「ペテルブルクからモスクワ への旅」の本で逮捕された思想家アレクサンドル・ラジーシチェフも、しばらくここにいた。
一説によると、ラストプチン総督がここに収容されていた犯罪者を解放 し、放火を指示して、1812年のモスクワ大火を引き起こしたという。
=エレナ・ポチェトワ/アントニオ・フラゴソ撮影
小ズラトウスチンスキー通り1(1 Malyi Zlatoustinskii Passage)
大ズラトウスチンスキー通りと小ズラトウスチンスキー通りの交差点には、カザコフがモスクワを去るまでの30年を過ごし、仕事をした、控えめな邸宅がある。
1782年に邸宅を購入、1785年に建物を改築し、自分と家族用の東棟、そして賃貸用の西棟の2つの部分にわけた。この邸宅の建物の設計図は、カザ コフが1782年に建設を始めたモスクワ大学の翼棟の設計図とよく似ている。カザコフは自分の建築学校の生徒用として、邸宅に応接間をつくった。
ロシア革 命(1917年)後、カザコフの邸宅は”消えてしまう”。1793年の「モスクワ案内図」には275番の番号がついたこの邸宅が載っているが、1800年 代の各種資料には記載されていない。1928年になってようやく、「旧モスクワ」委員会がズラトウスチンスキー通りの建物をカザコフ家の一部だと認めたが、それでも文書で認定されることはなかった。この”消えた家”が正式に発見されたのは、研究者らが証明書類を見つけた1953年のことだった。
*元記事(露語)
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