「占い」、1915年 画像提供:liveinternat.ru
コンスタンチンの父は、のちにモスクワ美術アカデミーに発展する美術学校の創設者で、時の大家カルル・ブリュローフなどと付き合いがあった。
初め、父の学校で学び、1858年にはサンクトペテルブルクの帝国美術アカデミーに入学するが、アカデミックな画材を強制されることに反発して退学する。
とにかく可愛くて耽美的
コンスタンチンは、弟のウラジーミルとともに、イワン・クラムスコイが率いた移動展派の創設者に名を連ねる。しかし、弟がこの絵画のナロードニキにふさわしく、民衆を題材とした社会性のある絵を描いたの対して、兄のほうは、主にいわゆる美人画で有名になる。
コンスタンチンの美人画は、とにかく可愛くて、美形で、どことなく哀愁が漂い、耽美的で、実に分かりやすく、ファンが多かった。彼がとくに好んで描いたのは、伝統衣装をまとった貴族の娘たちだ。
写真があまり普及していなかった時代、この手の絵はグラビアアイドルでもあったわけで、その点、コンスタンチンは代表格であった。
変節か独創か
彼の画風が大きく変わったのは、1870年代半ばにエジプトとセルビアを旅してからで、もともと装飾的な面があった彼の絵は、いよいよ社会性や心理などをかなぐり捨てて、色彩とフォルムの饗宴となっていく。
そのため、彼は、移動展派からの変節や過度の装飾性を非難されることもあるが、その一方で、ロシアの印象派の源流と見る向きもある。
1989年のパリ万博で、「イワン雷帝の死」、「デーモンとタマーラ」などの作品で金賞を受賞。おなじく装飾的で耽美的といっても、ミハイル・ヴルーベリのデーモンとは全然違う。
コンスタンチンは、1915年に、乗っていた馬車に市電が衝突し、事故死した。
*ネットでコンスタンチン・マコフスキーの作品340点余りを見ることができる。
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