モスクワでの塩一揆
アレクセイ・ミハイロヴィチ帝(ピョートル大帝の父)の寵臣で実権を握っていた大貴族ボリス・モロゾフが、財政難を打開するために、緊縮財政をすすめる一方で、塩を専売制にし、その結果、塩の値段が暴騰したのが、この大暴動のきっかけだ。
あわや大動乱の再現
民衆は初め、ツァーリに嘆願書を出そうとしたが、請願者たちは、軍隊に駆逐されてしまう。暴動が発生し、モロゾフの政策に不満な商工業者、銃兵、貴族などが加わって、高官の殺害、焼き討ちに発展する。火災は、全市を焼く大火になり、1万5千~2万4千戸が焼失、約2000人が焼け死んだ。
ところが暴徒たちは、大火はモロゾフの仕業だと決めつけ、さらに高官たちが殺された。あたかも、未だ記憶に新しい、17世紀初めの「大動乱」(スムータ)をほうふつとさせる事態になった。
まだ19歳だったアレクセイ帝はどんな対応をしただろうか?
若き帝の支離滅裂な泣き落とし
歴史家セルゲイ・ソロヴィヨフによると、彼は蜂起した民衆に次のように語りかけたという。
「『私はお前たちにモロゾフを引き渡すと約束した。私は、彼の無罪を完全には証明できないと告白せねばならぬが、彼を裁く決心もつかない。これは、私にとって大切な人間で、皇妃の妹の夫だ。そういう男を死罪にすることは実に忍びない』。そう言うと、ツァーリの目から涙がこぼれ落ちた。民衆は叫んだ。『陛下が永年健やかにあらせられますよう』」。
反乱の世紀を治め、大帝の改革を準備
ほとんど支離滅裂な泣き落としで危うく難を逃れた格好だ。
しかし、これはアレクセイ帝の“若気の至り”のせいというばかりではなく、彼が生きた時代は、「大動乱」の余韻が漂う、とくに難しい時代であった。この点について、電気通信大学准教授・三浦清美氏は、次のように述べている。
「アレクセイ帝は神に代わる地上の支配者として君臨する一方で、未曽有の大混乱のなかから外国勢力の駆逐に成功したロシア民衆と同伴するという課題を抱えることになったのです。民衆はツァーリを権力の頂点とする政治体制を支持していましたが、権力の過剰な行使には遠慮なくNOを突きつけました。反乱は、ツァーリと民衆の独特の緊張感のなかである種の必然性をもって頻発したのでした」(『反乱の世紀の中庸の指導者』)。
息子ピョートル大帝の大改革を準備
アレクセイ帝はさらに、1662年の銅銭一揆、1670年から71年にかけてのステンカ・ラージンの乱という未曾有の試練に遭わねばならなかった。
だが、三浦氏が指摘するように、そこではアレクセイ帝は、まったく異なる対応を見せることになるだろう。アレクセイ帝は、反乱の世紀を治め、ピョートル大帝の大改革を準備することに成功する。
ロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。