写真提供:wikipedia.org
炎は都心をひとなめにし、クレムリンも燃えた。言い伝えによると、兵士の未亡人(いわゆる兵隊後家)がイコンの前に立てたロウソクから出火し、ボロヴィツキー橋の前にあった大貴族ミロスラフスキーの邸宅が燃えたのが事の発端だという。「モスクワが1コペイカのロウソクで丸焼けになった」と言われた。
あいにく乾燥した季節で強風が吹いていたため、住宅2500戸、486の商店、教会多数が灰になった。クレムリンの名物である、重量200トンの「鐘の王様」も、“犠牲者”となった。この鐘は、火事の年前に鋳造されていたが、まだ鋳物場ピットのなかにあり、上には丸太の天蓋がかぶさっていた。火事のせいで、鐘は割れ、11.5トンの、やはり巨大な破片ができた。この破片は今でも、鐘の傍に置いてある。
割れた原因は、丸太が鐘に落下したからだとも、水をかけて冷やしたときに割れたとも言われる。クレムリンの塔の一つ、スパスカヤ塔の時計も焼けてしまった。もっとも、このときには既に故障して動かなくなっていたのだが。
住民の大部分は助かったが、94名の犠牲を出した。この火事は後に「トロイツキー火事」と呼ばれるようになった。トロイツァ(五旬祭=聖霊降臨祭)の日に起きたからだ。
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