イリーナ・スミルノーヴァ撮影
根っからの馬好き
クロート家は、バルト出身のドイツ系で、裕福ではなかったが、古い家柄の男爵家であった。祖父も父も軍人で、父は祖国戦争で活躍した勇将の1人だ。
ピョートルは、父の赴任先であったオムスクで育ち、当地の軍の学校で学んだが、幼い頃から絵を描いたり、粘土をこねたりするのが好きだった。とくにお気に入りのモデルは、軍人の家庭でおなじみの馬だった。
地下室に馬を引っぱり込む
17歳のとき首都に戻り、砲兵学校を卒業して任官するが、1828年に23歳で退役し、もっぱら彫塑に打ち込み始める。最初はまったくの独学だったが、1830年からは美術アカデミーの聴講生となる。
彼は当時、地下室に住んでおり、部屋は乱雑をきわめ、ときには、そこに馬を引っぱり込んで、そのあらゆる姿態を表現しようと試みた。周囲の住民は、「ヘンな男爵だなあ」と首をひねっていたという。
「種馬より上手く作る」
1830年代初めから、彼の力感と躍動感あふれる馬の彫像は評判を呼ぶようになる。やがて、政府から大きな注文が舞い込む。首都のナルヴァ凱旋門の上に載せる馬車だ。栄光の女神が6頭立ての馬車を駆っている、クロートのこの作品は、馬の疾走感がすばらしい。なかには後ろ足で立ち上がっている馬さえあり、彼の名声をさらに高めた。
皇帝ニコライ1世も、彼の作品のファンとなり、「クロート!お前は、馬を作るのが種馬よりも上手い」と、彼に直接言ったという。
20年かけて代表作のアニチコフ橋を完成
1832年からは、やはり政府の注文で、彼の代表作となるアニチコフ橋(フォンタンカ運河)の制作に入った。途中、鋳造職人が死んだり、ニコライ1世が橋用に完成した馬をプロイセン国王など各国元首にプレゼントしたりしたこともあり、完成は大幅にずれ込んだ。
だが彼は、自ら鋳造技術を習得するなどして、倦まず弛まず20年の歳月をかけてついに完成した。この橋は「馬使い」のブロンズ像で有名で、サンクトの観光名所の一つとなっている。
ちなみに、鋳造技術でも一流となった彼は、後に、キエフのウラジーミル聖公像の鋳造を任せられている。
クロートに救われたニコライ1世
クロートの作品ではほかに、作家イワン・クルイロフの銅像やニコライ1世の騎馬像などが名高い。この騎馬像は、聖イサアク聖堂前の広場にあり、小栗判官のように、馬が後ろ足で立ち上がっている。巨大な銅像が、この2本の足だけで支えられているというユニークな構造だ。
ロシア革命後、ボリシェヴィキは、この銅像も撤去しようとしたが、この優れた技術のおかげで、「優秀な技術の遺産」として、そのまま残されることになった。
死んだときも馬作り
彼が亡くなったときも、やはり馬がらみだった。孫娘に、馬の形に紙を切り抜いてくれとせがまれ、クロートは、紙と鋏を手にとりながら、「わしが小さかったときも、父がわしを喜ばせようとして、馬を切り抜いてくれたものだった・・・」と言ったが、次の瞬間、いきなり顔を歪めた。
孫娘は「いやねえ、おじいさん、私を笑わせようとして」と叫んだが、クロートはよろめき、床に崩れ落ちて、死んだ。
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