「伝説の17番」ワレリー・ハルラモフ

偉大なるソ連のアイスホッケー選手、ワレリー・ハルラモフの人生と運命が、ロシアの映画館の画面に映し出されている。映画「伝説の17番」は、アイス ホッケーが単なるゲームではなかった時代を教えてくれる。この時代にひときわ光彩を放っていたハルラモフとは、どのような人生を歩んだのだろうか。

 カナダ発祥のスポーツと言われているアイスホッケーは、世界最大の面積を誇るソ連そしてロシアにおいて、多くの人々を魅了した。「アイスホッケーをやっているのは本物の男、軟弱者にはできない」というソ連の有名な歌の歌詞は、このスポーツに対するソ連人の考え方をもっとも適確に現わしている。バレエやマトリョーシカと並んで、国の誇りそしてトレードマークとなり、選手の姿は栄光に包まれた宇宙飛行士や試験パイロットと重ねられた。

 ソ連は1970年代、アイスホッケーに生きていた。アナトリー・タラソフ・コーチが率いる伝説のソ連代表「赤い車」が試合をする時は、国中がテレビにく ぎ付けになっていたため、街中の通りから人の姿が消えていた。アイスホッケー熱が最高潮に達したのは、1972年と1974年に行われたスーパーシリーズ で、ソ連代表とカナダ代表が対決した時だ。双方の選手は当時、本気でケンカをし、どの試合も戦争さながらで、流血の末に勝利を勝ち取っていた。

 当時国民のヒーローだったハルラモフの人生に関する映画「伝説の17番」が映画館で上映され、40年前のスポーツのドラマが現代のロシア人の目の前でよみがえっている。公開第一週目の週末に800万ドル(約8億円)の興行収入をあげ、批評家の多くが称賛した。

「伝説の17番」のトレーラー、 英語字幕

 モスクワCSKAとソ連代表で伝説の17番を背負っていたハルラモフの人生の中で、5つの話題をロシアNOWが選んだ。


 1. バスク人のハーフ
 世界のプロレタリアートの父、ウラジーミル・レーニンの遺訓のごとく、ワレリー・ハルラモフは国際的な労働者の家に生まれた。両親はモスクワの工場「コムナル」で働き、父ボリス・ハルラモフは金属加工職人で、母カルメン・オリバ・アバドは旋盤工だった。カルメンは1937年、スペイン内戦から逃れてき た。スペイン系ソ連人は内戦後、母国に帰国する可能性を与えられていたため、8歳のワレリーは1956年、母とともに故郷ビルバオに数ヶ月間滞在し、学校 にも通っていた。


 2. 心臓疾患があってもプレー
 ワレリーが初めてスケート靴をはいたのは7歳の時で、以来遊び友達とホッケーをするようになった。当初プロになるには体の弱さがネックとなっていた。ワ レリーは身長が低く、か弱い体型だったため、コーチの信頼を得ることができなかった上に、狭心症を患った後で心臓疾患が発見されたのだ。医師は心臓に負担 のかかるような行為を禁じた。だが息子の潜在性を知っている父は妻に内緒でCSKAのアイスホッケー部門に連れて行き、そこでコーチに気に入ってもらい、 入団が決まった。定期的な練習のおかげで筋肉質になり、病気も克服できた。


 写真提供:kinopoisk.ru 

 3. 隕石落下の45年前に
 CSKAのユースチームにフォワードとして在籍していたハルラモフは、1967~1968年のシーズン、ウラル地方のチェバルクリ市のズヴェズダ・クラブでプレーした。ここは正に2013年2月に隕石が落下した場所だ。
当時CSKAは敵なしで、チームには最強の選手がそろっていたため、タラソフ・コーチは新進気鋭のこの若手選手を控えとして休ませずに、ランクがより下の CSKA2軍のズヴェズダで経験を積ませた。ハルラモフは見事に期待に応え、1シーズンで34ゴールを決めてズヴェズダを昇格させた。次のシーズンは CSKAのトップチームでプレーした。

 

 4. 百万ドルの男
 ワレリー・ハルラモフの名前が世界にとどろいたのは1972年9月のことだ。これこそがソ連代表とカナダ代表のスーパーシリーズである。誰もがカナダの 勝利を信じて疑わず、トロントのグローブ・アンド・メール紙の記者であるディック・べドロスは、ロシアがシリーズの1試合でも勝利したら自分の新聞記事を 食べると宣言した。べドロス記者は第1試合が終わった時点で、すでに約束を実行する羽目となった。ソ連代表はカナダ代表に対して7-3で圧勝し、2勝利をあげたハルラモフは最優秀選手と認められた。シリーズではソ連代表は負けたものの、カナダの専門家をあっと言わせ、特にハルラモフが大きな印象を与えた。 鍛えられた体を持った背の低いこの選手は、氷上における技術面でも機転の良さでも、力強く背の高いカナダ人より頭ひとつ抜けていた。カナダのNHLはスー パーシリーズが終わってから、ハルラモフに百万ドルの契約を持ちかけた。当時はソ連の選手が外国に移籍することが不可能だったため、それは実現しなかった が、トロントの博物館「ホッケーの殿堂」には、今でもハルラモフの写真が展示されている。

 

 5. メメント・モリ(死を記憶せよ)
 アイスホッケーのパックのように躍動したハルラモフの人生は、突然終わりを迎える。1981年8月27日、妻のイリーナが運転する車が、モスクワ郊外の 雨が降って濡れた道でスリップした。ワレリーとイリーナのいとこのセルゲイが同乗していたヴォルガは、対向車線にはみ出してトラックと衝突し、3人とも亡 くなった。8月31日に行われたワレリーの葬儀には数千人が参列した。ソ連代表のコーチであるヴィクトル・チホノフは、事故の数日前に行われたカナダカッ プへの召集で、ワレリーを呼んでいなかった。代表チームは決定的な試合でカナダに8-1で圧勝し、偉大な選手に大会勝利をささげた。