1716年
大帝は当時、強国スウェーデンとバルト海の覇権をかけて大北方戦争(170~1721)を戦っていた。1703年にネヴァ河口のスウェーデンの要塞を陥落させると、大帝は、この沼地に「ヨーロッパへの窓」となるべき人工都市を建設することを決断し、同1703年に建設が始まった。この都市は、大帝の守護聖人の名を冠しサンクトペテルブルクと名付けられる。
この地域は、ロシア内陸の交易路であるドニエプル水系、ボルガ水系とバルト海をつなぐ位置にある。つまり、ロシアと西欧の交易路の要なのだ。
波騒ぐ荒野の岸辺に
偉大な思いに心を満たしつつ、彼が立っていた
そして、はるか彼方に眼差しを向けた。彼の前には広大な
河が流れている。みすぼらしい丸木舟が
ただ一艘、矢のように進んでいく・・・
これは詩人アレクサンドル・プーシキンの名作『青銅の騎士』(1833)の冒頭だ。文字通り何もなかった沼地に、最初に築かれたのはペトロパヴロフスク要塞である(1703年着工)。1704年には、クロンシュタット要塞の建設が始まった。要塞があるコトリン島は、フィンランド湾に浮かび、サンクトペテルブルクを湾の手前で守る、いわば前哨の位置にある。
建設では当然、軍事が優先され、まず守りを固めたのちに、次第に官公庁、商業施設、学校、宮殿なども建てられていった。
早くも1712年には遷都が宣せられ、翌1713年からはすべての廷臣が当地に住まねばならないことになった。
ここの沼地と悪天候を考えると、恐るべき急ピッチの建設ぶりで、工事で約1万人の犠牲者を出したともいわれるが、大帝が亡くなる1725年には、サンクトの人口は10万人を超え、欧州有数の都市になっていた。
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