アレクサンドル・プーシキン(1799-1837)
ロシアの大詩人プーシキンの美術分野の一面は、彼の作品の愛読者にはよく知られている。ほとんどすべての草稿に、作品テキストと並んで、顔、人々、動物、風景、日常生活の情景などの素描が描かれている。プーシキンは自作品の装丁にも深く心を配った。彼の草稿には度々表紙や挿絵のスケッチが見られる。おそらく「画家」プーシキンのお気に入りのテーマは自画像だっただろう。プーシキンの読者にとって彼の横顔は、まさしく詩人自身の鉛筆やインクのおかげで、すっかりお馴染みだ。
ミハイル・レールモントフ(1814-1841)
ロシアの古典詩人レールモントフの絵は、鉛筆、水彩、油、インクなど、いろいろな技法で描かれている。無造作に描かれた素描作品にまじって、非常に精密に仕上げられた油絵がある。レールモントフがとくに愛したのは、作品の登場人物や、彼にとって大切なカフカース山岳地帯の風景だ。レールモントフは専門的な美術教育は受けていないが、彼の作品は、文学の言葉で創り上げられた人物像を見事に補完している。
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ワシーリー・ジュコフスキー(1783-1852)
プーシキンの友人で忠告を惜しまぬ先輩だった詩人ジュコフスキーは、同時に画家でもあり、有名なロシア画家カルル・ブリュロフの友人だった。絵を描き始めたのは、モスクワ大学付属貴族寄宿学校時代。絵は絵具や鉛筆で描き、版画はプロの腕前だった。旅をこよなく愛した彼は、ロシアや西欧諸国の都市や地方の風景や情景を描いた数多くのアルバムを残した。さらにジュコフスキーはすぐれた肖像画家でもあった。彼の銅版画や版画は、自作の絵を原画として作られることが多かった。
マクシミリアン・ウォローシン(1877-1932)
詩人ウォローシンは美術の、いわゆるキンメリア派の創始者だった。彼が描いた幻想的なキンメリアは、彼が愛した黒海のクリミア半島だ。主に水彩による風景画を描き、それに詩を添えた。「そなたの湿りある光とくすんだ影は、岩々にトルコ石の風情を与う」のような詩だ。マクシミリアン・ウォローシンはパリで美術を学んだ。今、ウォローシンの作品は、トレチャコフ美術館やプーシキン美術館など、多くの美術館のコレクションになっている。
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ウラジーミル・マヤコフスキー(1893-1930)
詩と美術の未来派だったソ連の詩人マヤコフスキーは、文字どおりプラカードの名人だった。絵は幼時から描き、モスクワ絵画・彫刻・建築学校で教育を受けた。刑務所生活を送ったマヤコフスキーを、思想穏健証明なしに受け入れてくれた唯一の学校だ。やがてマヤコフスキーは、絵と詩を結合して、革命プラカードという新分野の芸術をうち立てた。
アレクサンドル・ジノビエフ(1922-2006)
哲学者ジノビエフは、自分が絵を描いた経験を重要視していなかった。「私は、学校の同級生、軍隊の仲間、モスクワ大学の同じ学部の学生や教員、職場の同僚たちを戯画化した絵を描いた。その後、知人の肖像画や日常生活の情景を描き始めた」と、ジノビエフは自分で語っていた。彼の妻が彼の作品の収集を始めた。ジノビエフが進んで作品を発表し始めたのは、1978年にソ連から国外追放になってから。モスクワで最初の個展が開かれたのは2000年10月だった。
ユーリー・コバリ(1938-1995)
ユーリー・コバリは、ソ連の子どもたちに愛された作家の一人で、ソ連の児童向け文化雑誌「ムルジルカ」の編集スタッフだった。多くの資格免許を持っていたが、その中に図画教員免許がある。コバリは、作家の才能と同様に画家としても才能を発揮した(彼は素晴しい挿絵画家でもあった。描いたのは自分の本の挿絵だけではない)。彫刻・記念碑制作アトリエで学び、デッサン、絵画、モザイク画、七宝、フレスコ画に関心をもった。「生涯に出会った最高の人物は画家たちだった」とコバリ自身が認めている。
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