セドフは、アゾフ海沿岸の漁師の家に生まれ、少年時代から遠洋航海にあこがれていた。航海士の資格を得て航海に従事するが失職し、海洋学と探検の夢を実現するために海軍に移り、1902年から1903年にかけて、北極海の水路調査航海を行っている。日露戦争中は魚雷艇の艦長であった。
チーグラー極地遠征に刺激される
1903年に、北極点を目指して準備していた米国人アンソニー・フィアラにアルハンゲリスクで会ったことが、セドフの北極探検の夢をかきたてる。
フィアラは、「チーグラー極地遠征」(1903年~1905年)のリーダーだ。この遠征隊は、極地到達には失敗し、2年間も北極圏で身動きがとれなくなったが、1名をのぞき全員が生還している。
セドフは、1906~1907年に、北極海航路の意義を論じた一連の論文を発表し、1910年には、北極海の列島ノヴァヤ・ゼムリャを探検した。
1912年実現にこだわる
1912年にセドフは、北極点にソリで到達する計画を立てたが、政府は、計画が「空想的かつ非現実的」だとして、資金提供を拒否した。実際、セドフは、1912年中の実現にこだわっており、そのために十分な準備期間がとれなかった。
これは、ノルウェーのアムンゼンが南極に続き、北極も征服する計画を立てていると伝えられていたこと、1913年のロマノフ朝300年祭に間に合わせようとしたことなどが理由だ。
セドフはやむなく自分で集めた資金で、計画を決行することにした。皇帝ニコライ二世も個人的に1万ルーブルを寄付している。
拙速な準備
準備は拙速のそしりを免れず、買い込んだ食糧が一部腐敗していたり、納入されなかったりした。レンタルした船「殉教者フォカ号」も、1870年製の老朽船で、十分な修復が間に合わず、浸水が懸念された。無線機はいったん搭載したが、無線技師を雇えなかったので、しかたなく置いていくという状況。
しかも、船の積載能力が、予定の物資の重量に達しなかったため、貴重な食糧や燃料をさらに減らさねばならなかった。ダメ押しは、乗組員が、準備不足を理由として自ら下船を申し出たため、新たに乗組員を編成しなければならなかったこと。
不安を抱えながらの出航
それでも、1912年8月14日、もはや引っ込みがつかないセドフは、不安を抱えながら、アルハンゲリスク港を出航した。冬季は流氷のためにノヴァヤ・ゼムリャで越冬し、ようやく1913年8月に、フランツ・ヨーゼフ・ランドに達したものの、燃料不足のためにティハヤ湾で越冬。
食糧不足も深刻で、極地探検に最も不適当なお粥ばかりを食べることになり、隊員の多くが壊血病にかかった。壊血病を免れたのは、セイウチや犬の肉を食べた7人のみ。セドフ自身も衰弱し、1914年1月からは船室から出ることもほとんどなくなり、船内は、燃料不足で暖房がきかず、氷に覆われた。
捨て身で極点を目指すが・・・
1914年2月2日、すでに壊血病にやられていたセドフは、2人の隊員とともに、ティハヤ湾から犬ゾリで北極点を目指した。しかし、セドフの病状は急激に悪化し、18日目の2月20日に、ルドルフ島付近で死亡した。2人の隊員は、セドフの遺体を、彼が極点に立てるはずだった旗などとともに葬り、船に引き返した(セドフの死後の状況については異説もある)。
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