ロシア帝国の国章 |
東ローマ帝国から受け継ぐ
双頭の鷲がモスクワ公国の国章として印璽に初登場したのは、1497年のことで、イワン3世の治世だった。
イワン3世は1472年に、東ローマ帝国の末裔であるゾイ・パレオロギナ(?~1503)と結婚した。ゾイは、最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪に当たる。この結婚は、モスクワ公国が東ローマ帝国の継承者を自称する根拠をもたらし、ビザンチンの国章「双頭の鷲」は、ロシアに受け継がれ、イワン3世は、初めてツァーリを自称することになる。
もっとも、この時点では、国章は、半分が鷲、半分が竜を退治する騎士という、二つの国章をくっつけた折衷的なものだった。
古代オリエントにさかのぼる
ちなみに、双頭の鷲は、紀元前20~7世紀のシュメール文明など、古代オリエントにもみられるきわめて古いものだが、ロシアのそれは、上のようないきさつからローマの流れを汲んでいる。
もっとも、ローマ帝国の国章は、双頭でない鷲だったが、東ローマ帝国が“西”の支配権を失ったあとで、西と東の支配権を象徴するものとして現れた。今日でも、双頭の鷲は、ドイツ、セルビア、アルバニアなど、ローマ帝国、ビザンツ(東ローマ帝国)の流れを汲むと自認する国が、国章として使っている。
国際規格に合わせて改める
ロシアの双頭の鷲は、勢力の拡大とともに、変容していく。17世紀には、王権と帝権を表す王笏(おうしゃく)、帝王の権標(十字架の付いた黄金の球)などが追加され、多くのツァーリの下で、何らかの変更が加えられる。
時代は下って、アレクサンドル2世の1855年の即位直後から、双頭の鷲の国章を国際規格に合わせて修正することになった。
1855年に元老院内に特別委員会が設けられ、大中小3種類の図案とその用い方が決められ、1857年4月11日にアレクサンドル2世により承認。5月に布告が出された。
ロシア革命後の廃止と復活
以来、1917年のロシア革命までは、国章に変化はなかったが、1917年11月23日に、ソビエト人民委員会議(内閣)が、帝政時代の身分制廃止令を布告し、帝政時代の国章、国旗、勲章もすべて廃止された。
ソ連崩壊後の1993年11月30日に大統領令により、双頭の鷲がロシアの国章として復活する。
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