「デーモン」、1890年。
西シベリアのオムスクで、クリミア戦争に参加した工兵将校の家庭に生まれた。父方の先祖はポーランド人で、ヴルーベリはウグイスを意味する。
父の希望で、ペテルブルク大学法学部に入学するが、法学にはさっぱり興味を示さず、芸術、オペラ、カント哲学などに夢中であった。にもかかわらず大学を優等で卒業。
イコン『聖母子像』、デーモン・・・
1880年秋から、帝室美術アカデミーの聴講生となり、パーヴェル・チスチャコフのもとで学んだ。
たちまち才能を現し、84年にチスチャコフの薦めで、キエフの聖キリル教会の壁画(12世紀)の再建を依頼された。ここで描いたイコン『聖母子像』などは、彼の名声を一気に高めた。
またキエフ時代には、詩人ミハイル・レールモントフの長編詩「デーモン(悪魔)」によるスケッチと水彩画の制作を始めている。
美術集団「アブラムツェヴォ」派をリード
89年にモスクワへ移り、民芸的かつアールヌーヴォー的な美術集団「アブラムツェヴォ」派に加わり、舞台美術、陶芸、ステンドグラスなどでも優れた作品を残す。
しかし、1902初めから精神病の兆候が現れ、病状は次第に絶望的となる。さらに1906年には失明するなど、不幸が重なり、1910年4月に亡くなった。
葬儀に際し、象徴主義の大詩人アレクサンドル・ブロークは、こう述べた。「ヴルーベリのような人が、せいぜい1世紀に一度くらい人類にかいま見せてくれるものを前にして、私はただ戦慄するのみです。彼らが目にしたものを私たちは見ることができません」。
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