写真提供:wikipedia.org
正体不明のダンテス
プーシキンの晩年(といってもまだ30代だが)、ペテルブルクにフランス士官ジョルジュ・ダンテスなる人物が現れ、絶世の美貌をうたわれた、詩人の妻ナターリア(1812~1863)に公然と言い寄りはじめた。
ナターリアとダンテスが知り合ったのは1835年のことだ。二人のことが噂にのぼるようになったが、実際に関係していたかどうかは定かでない。
妻ナターリアとの逢引
火に油を注いだのは、ダンテスとナターリアの逢引だ(時期は不明)。場所は、毒舌をもって鳴り、「陰謀夫人」の名を奉られていたイダリア・ポレチカ夫人宅。
夫人とプーシキンは当時、これまた定かならぬ理由で、激しく反目しあっていた仲だった。
実はナターリアは、そこにダンテスがいるとは知らずにおびきだされただけだ、という説もある。いずれにせよ、逢引の詳細は、当然のことながら不明だ。
匿名の怪文書と奇怪なてん末
1836年11月、プーシキンの友人たちに、ナターリアの浮気をあてこする匿名の文書が配布される。
翌日、ついにプーシキンはダンテスに決闘を申し込むが、ダンテスは、意外千万にも、自分はナターリアではなく、その妹のエカテリーナが好きなのだ、と釈明し、早くも同月、ダンテスとエカテリーナは婚約してしまったのである。
二人は、翌37年1月に結婚式を挙げ、プーシキンとダンテスは親類になってしまった。
ところがダンテスは、2月4日(1月23日)、ことさらにプーシキンを挑発するかのように、舞踏会でナターリアを侮辱する。
翌日、詩人は、決闘を申し込み、2月8日に、ペテルブルク郊外のチョールナヤ・レーチカの雪原で決闘が行われる…。
謎だらけ
このように、事件は謎だらけで、ダンテスの背後関係もわからないし、ナターリアとダンテスの関係も不明だ。単純な嫉妬説から、ポレチカ夫人など社交界の陰謀説、果ては皇帝ニコライ1世と秘密警察の陰謀説もあり、今日まで議論が止まない。
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