1878年、サンクトペテルブルクに、ロシア初の女子大学である「ベストゥージェフ女学院」が開校したが、男子の高等教育機関と法的に対等ではなかった。
ロシアでは、女子高等教育の歴史は、ようやく19世紀後半に始まる。帝政ロシアでは、1870年代まで、女子の大学進学は許されなかった。その結果、向学心に燃える富裕層の子弟はヨーロッパへ留学し、「西欧にかぶれて」帰ってきたため、ロシア政府としては何らかの対策を講じる必要にせまられた。
1878年にロシア初の女子大学が開校
1869年にロシア最初の高等女子専門学校が、医師と教師の養成機関として、サンクトペテルブルクとモスクワに創設された。
1873年には、政府内に委員会が設けられ、女子高等教育機関に関する計画を策定。75年には、政府の決定で、女性が高等教育を受けることが可能となった。
これを受けて、ウラジーミル高等女子専門学校の創設者たちとアンドレイ・ベケートフ(植物学者でペテルブルク大学総長、詩人アレクサンドル・ブロークの母方の祖父)が、1878年に、首都に女子高等教育機関を開設する許可を得た。
こうして、1878年、サンクトペテルブルクに、ロシア初の女子大学である「ベストゥージェフ女学院」が開校したが、男子の高等教育機関と法的に対等ではなかった。
女性革命家の養成機関?
1870~80年代には、革命運動が活発になり、テロが頻発し、女性運動家も目立つようになると、女子高等教育機関も、反動に見舞われ、86年には、ほとんどの女子高等教育機関が閉ざされてしまう。
ちなみに、81年に皇帝アレクサンドル2世を暗殺したテロリストの指導者、ソフィア・ペロフスカヤは、ペテルブルク総督の令嬢で、ほかならぬ69年に開校した高等女子専門学校に学んでいた。
女子高等教育機関の法的地位が、男子の大学に等しくなったのはようやく1911年のことだ。1912年には、女子高等教育機関の学生数は約2万5千人で、うち1万5千人がペテルブルクとモスクワであった。
男子と女子の高等教育機関が単一の制度に統合されるのはロシア革命後である。
ロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。