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1926年にレニングラード(現サンクトペテルブルク)で生まれ、第二次世界大戦のレニングラード包囲戦の最中をずっとそこで過ごした。飢え、寒さ、大変な困難、高射砲部隊の任務といった自身の人生の一部を、その自伝に詳細かつとても冷静に記している。
戦後に合唱団で歌い、やがてレニングラード州立オペレッタ劇場のソリストを務めるようになり、ついに1952年にコンクールで合格してボリショイ劇場の研修グループに加わる。見事なソプラノの声を持ち、勉強熱心でもあった。オペラ劇場は、何よりも天性の美声を必要とするが、さらにたくさん音楽を聴き、本を読み、劇場芸術を学び、極めて広い視野を持つことを求める、非常に難易度の高い芸術だ。
数々の名演残し
ヴィシネフスカヤは本物の音楽家らしく、生涯ずっと学び続けた。ヘルベルト・フォン・カラヤン、アレクサンドル・メリク・パシャーエフなど、同時代の名指揮者すべてと仕事をし、ロシアの伝説的なテノール歌手たちのほか、プラシド・ドミンゴ、ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ、ビルギット・ニルソンなどと共演し、またロシアやイタリアのオペラ、チャイコフスキーの「エヴゲーニイ・オネーギン」のタチアーナ、ヴェルディのアイーダといった、もっとも難しく、もっとも劇的なパートを歌った。そのレパートリーはとても豊富だった。
夫ロストロポーヴィチとの二人三脚
1955年に、チェロ奏者、指揮者、作曲家であるムスティスラフ・ロストロポーヴィチと結婚し、ロストロポーヴィチが亡くなる2007年までの52年間を共に過ごした。ロストロポーヴィチは最初の頃、ピアノ伴奏でヴィシネフスカヤと共演していたが、やがて指揮をとり、一緒に世界をまわるようになった。夫妻は1970年代初めに、ソ連政府の監視下にあったアレクサンドル・ソルジェニーツィンを支援したため、KGBの勧告で、1974年から長期海外公演に出なければならなくなった。世界的に有名なオペラとクラシック音楽のスター、またソ連の特権階級だった夫妻には、KGBが手出しできなかったため、こっそり出国することを“アドバイス”したのである。
78年に国外追放
とはいえ、実際にはこっそりとはならなかった。ヴィシネフスカヤは外国で輝かしい成功を続け、アメリカやヨーロッパで歌い、演出家としてオペラ公演を行い、亡命ロシア人と交流した。ソ連政府は1978年、「ソ連の威信を傷つける組織的活動」を行ったとして、夫妻のソ連国籍をはく奪した。
夫妻にソ連国籍が返還されたのは、ペレストロイカも終わりに近づいた1990年で、その後ようやくロシアに帰国することができた。ロストロポーヴィチは1991年8月に発生したクーデターで、自由を求めてバリケードを守り、コンサートを行った。
最後まで旺盛な活動
ヴィシネフスカヤは劇場で上演を行い、映画にも出演したが、1993年にオペラの舞台から降りて、教育活動に没頭するようになった。2002年、総合文化教育を行い、広い視野と理想的な歌声をつくりだす、オペラ歌手のための学校、ガリーナ・ヴィシネフスカヤ・オペラ歌唱センターが開校した。今年12月にはセンター10周年を記念して、盛大な祝賀行事が計画されていた。ヴィシネフスカヤは2週間前に「一等祖国功労」勲章を受賞したばかりだった。さまざまな勲章を受章していたが、もっとも誇りを持っていたのは、戦後の「レニングラード防衛」メダルだったに違いない。
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